王陽明先生と弟子との対話1-2

『親民』という言葉は、「孟子」の中にある『親を親しみ、民を仁す』という言葉と意味するところは同じである。

『親しむ』ということは、『仁する』ということである。「書経」に『百姓(ひゃくせい)親しまず、舜(帝)、(臣下の)契(せつ)を司徒(大臣)として、敬(つつし)んで五教を敷いた』とあるのは、『親』の根拠である。また「書経堯典」の『克(よ)く峻徳を明らかにす』とあるのは、「大学」の『明徳を明らかにす』と同じことをいっているのである。「書経堯典」の『以て九族を親しむ』より『平章・協和』と言うに至るまで、便ちこれは『民を親しむ」ということを言っているのである、便ちまた同様に「大学」の『明徳を天下に明らかにする』ということも要は同じことを言っているのである。

また、「論語」の中で孔子が『己(おのれ)を修めて以て百姓(ひゃくせい)を安(やすん)ずる』と言っていることも、同様のことを言っているのである。つまり、『己を修むる』とは『明徳を明らかにする』ということであり、『百姓を安ず』とは『民を親しむ』というのと同じ意味である。

また、『民を親しむ』と言えば、教え導き、養い扶ける意味をも含むものである。『民を新たにする』という説では、どうしても偏りがあるように思う。

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