王陽明先生と弟子との対話  1-1(伝習録より)

私(徐愛)は先生に尋ねました。

「大学」の『在親民(民に親しむに在り)』は、「『在新民』とすべきである」と朱子は述べました。後ろの方の章に『作新民(新民を作(おこ)す)』とあるのは、根拠として正しいように思います。ところが先生は、「旧本に従って『親民』とすべきである」とおっしゃいました。これにも根拠とするところがあるのでしょうか?

王陽明先生曰く、

『作新民(新民を作す)』の『新』は、『自ら新たにする民衆』の意味で、『在新民(民を新たにするに在り)』という場合の『新』と意味が異なる。これは根拠として充分とは言えない。『作新民』の『作』の字の意味は、むしろ『在親民』の『親』の字の義に対応していると言うことが出来るのではなかろうか。しかし、『新』の字の意味ではないでしょう。

「大学」のそれ以降の展開における「治国平天下」に当てはめてみても、『新民』の解釈では、主旨が一貫せず、論旨が明らかとならない。

『君子は其の賢を賢とし、其の親を親しみ、小人は、其の楽を楽しみ、其の利を利とす。赤子を保つが如し。民の好む所は之れを好み、民の悪む所は之れを悪む。此れを之れ民の父母と謂う』という「大学」の文章など、皆これの示すところのものは『親』の字の意である。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?