王陽明先生の手紙2

王陽明先生の手紙2-1
徐 成之(じょせいし)に答える


鄭汝華(ていじょか)と旅先で出会い、君(徐成之)の最近の生活振りを仔細に聴くことが出来た。けれども、直接に会う機会を持てずにいるので、かえって悶々たる思いが増すばかりである。

吾が故郷にいる若者たちで学問に志す者は数えきれないほど多勢いる。けれども、その中で、『篤く信じ、学を好む』こと、君(徐成之)に勝る者がいるだろうか?『過ちを聞き、忠告善道を喜ぶ』こと君に勝る者がいるだろうか?『過ちて吾に告げることなく、学んで吾とともにすることがない』とは、君の思いでなければ、誰の思いだというのか?
徐成之よ、どうか自分を大事にしたまえ。
人はその好むものを失うと、なかなか『仁』というものを成し遂げることが出来ないものである。

以前、君は同郷の学友たちの中にあって、周りに流されず、ひたすらコツコツと勉強に励んでいた。周りの学友たちはそんな君のことを『迂腐(役立たずのガリ勉)』と馬鹿にした。しかし、君はそんな周囲の言葉や態度にも全く動じなかった。私はその時、君の態度に感心はしても、周りの人のように馬鹿にするようなことは無かった。それでも尚、今にして思えば、君の材質の得難いことをその当時真に実感していたとは言えない。今になって、君の得難いことを改めて知らされるが、残念なことには、身近に相逢うて接する事が出来ない。何とも残念に思えてならないのである。

『己を修める』と『人を治める』とは、本来別々の二つの道ではない。例えば、政治の道は人事転変のまことに劇しいものがあるが、それもまた学問の地であると言える。君ならば、きっと経験に即して大いに得ることがあるだろう。しかしそうした卑近の経験や認識を真実の道に繋げるための至論を聞く機会がない。助けとなることが出来ずにいるのは、誠に残念なことである。

近頃、君のことを思うに、恐らくは学問修養の功夫がやや厳しすぎるのではないだろうかと思う。先儒(昔の先達)のいわゆる「道に志して一生懸命に学問修行をすることは、もちろんこれは大学のいわゆる『誠意』というものである。然しながら、慌てて余裕がない状態で、急いで道を求めんとすることは、却って道を離れ、私的な自我を立てることになりかねない」と言っていることを、よくよく自ら省みるべきである。

 日常すべてのことは、天理の流れによるものである。だから、自分の心を見失わなければ、真実のものが自分の心の中で熟していくものなのである。「孟子」にいわゆる『忘るるなかれ、助くるなかれ』『深造自得』というのは、このことである。学問の功夫は、緩(ゆる)くしてはいけないが、かといって、意識して無理に行うことを恐れるのである。もし、それで得ることがあっても、もともと自然で無い、作為的なものがあるから、そこに長く安心することはできないだろう。君(徐成之)の学問工夫がそうだと言う訳ではないが、敢えて私の私見を言わせて貰えば、ややそれに近いものがあるように思えてならない。今後、君が学問工夫を進めて行く上で、大事な要(かなめ)となる点だと思うから敢えて言葉を尽くしたのである。君が平生(自らの非を)聞くことを楽しみとし、さらに教えを求めんと欲する姿勢に期待するものである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?