王陽明先生の手紙 1

一、辰(しん)中の諸生に与える
  (明武宗正徳四年−1509年、38歳)
龍場に謫居させられていた二年ほどの間は、共に道を語ることの出来る友もなく過ごしていたが、赦されて都に帰る途中、早くも君ら諸友と会うことが出来た。何という幸せなことだろうか。まさに喜びに溢れていたところだったが、急にまた離れることになり、とても残念な気持ちでいっぱいです。
聖人の学問が途絶えて久しく、本当に道を求める者は少なく、周りからの非難や批判によって、容易に志を失い易い。『孟子』に云う「豪傑の士」でなければ、卓然自立して些かも変節せずにいることは容易ではない。君達諸友は、お互いに切磋琢磨し、また助け合い、他日に向けて成徳の達材たるを期すべきである。近年やや道に志のある者もあるが、皆実徳が備わらないうちから看板を立てるため、世間から誹謗中傷される。そのため皆志が挫けて再び立ち上がれず、かえってこの道の妨げとなってしまう。君達諸友は、こうしたあり方を鑑として、名声や評価、評判を得ようとする心をすっぱりと断ち切って、「務於切己處着實用力」(務めて己の切なる處に於いて着実に力を用ふべし)自己内面の充実に務むべきである。
先日、虎渓龍興寺にて「静坐」を勧めたのは、坐禅入定を目指すためではない。思うに諸君達は普段、いろいろの事に逐われて、真実に自分自身に向き合うことを知らないでいる。だから、『小学』に言うところの「放心を収める」工夫の一つとして勧めたのである。程明道先生は云ふ「初め学び始めたときには、どこに力を用いるかを知るだろう。学がやや成熟して来ると、力の付いてきたことを実感出来るだろう」と。諸君らも、よろしく「この処(切己處)」において力を着くべきであって、そうしてこそはじめて進歩するところがあり、他日きっと力を得ることを実感出来るであろう。

『学は鞭辟近裏(内面深く省察し)、己に着くる(自己に立脚する)を要す』

『君子の道は闇然として日に章かなり(内面充実の工夫)』

『名のためするのと、利のためにするのと、清濁同じからずと雖も、その利己の心は同じである』

『謙虚な態度は有益である』

『人に異なることを求めず、理に同じきを求む』

これらの言葉を壁に貼っておくと良い。常にこれらの言葉を目にしていれば、「受験勉強が真実の学問の功夫を妨げることを心配する必要はなく、ただ自らその志を失うことのみを心配すべきである」ということを忘れずに居られる。きちんと計画を立て、コツコツと努力を積んでいけば、そのどちらも両立させることが出来るだろう。
いわゆる『灑掃応対を知り得れば、便ち此れ精義神に入る(掃除や対人関係等、煩わしい日常生活の一見無意味なことや、細々した小さな事にも徹することが出来れば、偉大な境地にも達することができる)』というものである。

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