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都会の娘と田舎の母。不器用で、だけど愛しい再会の5日間 ~エリザベス・ストラウト『私の名前はルーシー・バートン』

 昨日の記事で、日本の〝母娘問題〟についてすこし触れました。

 一見、無邪気だけれど、愛情の名を借りて子を束縛し、過干渉になっている親、という図式のお話でした。
 今日は、それとはまったく異なる母と娘の関係が描かれた作品を紹介します。

 エリザベス・ストラウトの小説『私の名前はルーシー・バートン』(早川書房)です。↓

 主人公のルーシー・バートンは、アメリカ中西部の田舎町で、貧しい家の末娘として育ちました。成績が優秀だったため、ひとり大学へ進学。その後、実家の家族とは縁遠くなり、結婚してニューヨークに住んでいます。
 あるとき、体調を崩して入院。夫や子どもになかなか会えず、不安な入院生活を送っていました。そこへ思いがけず、田舎から出てきた母が見舞いに訪れて、ルーシーの病室に泊まりこみ、5日間を過ごします。
 お互いにぎこちなく、不器用なふたり。病室でずっと一緒にいても、他愛もない昔話や、郷里の人々の噂話を交わすだけです。けれどもそれは、ルーシーにとって忘れがたい思い出に――。
 さらに未来の時点にいる、すでに作家になったルーシーが、その思い出を回顧するという形で綴られている物語です。

 田舎町から一歩も出たことのないような母親と、単身で郷里を出て大都会ニューヨークに乗りこみ、結婚・出産も経験している娘のルーシー。そのふたりの〝距離感〟のようなものが会話を通して描かれていて、意外なことに、それがとても心地よいものでした。

 いわば正反対の生き方をしてきたふたりは、人としても女性としても、かけ離れたところに立っています。でも、ステレオタイプのドラマのような対立はありません。かといって、かっこよく理解し合っているわけでもありません。
 お互いに、相手を理解しようとするのではなく、ただ、認めようとして、慎重に輪郭をなぞり合う、そんな不思議な距離感が、私にはなんだかうらやましく思えました。
 生き方は違っていても、共有している過ぎた日の記憶が、母と娘の心を深いところでつないでいて、一瞬触れ合い、温め合う。そんなイメージです。

 こういう母と娘の関係を描いた作品が、日本でも、もっとあったらうれしいなあと思いました。だったら自分で書いてみようかな、と頭をよぎり、私にできるかなあ、どうかなあ……などと考えてしまいました(笑)。

 印象的だったのは、無学な母親がときおり見せる、人としてのプライドや信条。
 人の持つ尊厳は、育ちや学力、職業、貧富などとは関係のないところに根差しているものだと、あらためて知らされた思いでした。

 ちなみに、この作品のルーシー・バートンは、同じくエリザベス・ストラウトの短篇集『何があってもおかしくない』にも出てきます。

↓詳しくは、こちらの記事をご覧ください。

 2冊ともおすすめしたい、素敵な作品です!


◇見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、もとき(motokids)さんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。

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