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短篇|コトリはキセキを信じていたい

 奇跡なんて信じない。コトリは電飾の消えたクリスマスツリーを見上げた。銀色の天使のオーナメントや、金と赤の玉飾りが暗がりにぼんやり浮かんでいる。
 つい1時間ほど前まで、この小さな教会はイヴの礼拝でにぎわっていた。クリスマス・キャロルが響く中、コトリは一般参加者として紛れこみ、ベルタワーの階段に隠れて人びとが帰るのを待っていた。
 館内はすでに静寂に包まれている。階段に腰掛けて、彼女はスマートフォンの画面を眺めた。
 人気ミュージシャン「ノエル」のSNSは、今日の午後の投稿を最後に更新が止まったままだ。
《ごめん小鳥。約束、守れそうにない》
 謎めいた投稿に、ファンもアンチも憶測で盛り上がっている。そもそもここ数日は、ノエルの「略奪愛」が発覚したとかで、SNSは大炎上していた。夫がいる女性マネージャーと不倫関係にある、ということらしい。
「9年も、音信不通だったのに」コトリはマフラーを巻き直した。あの日と同じポニーテールにしてきたせいで、首筋が寒い。
「守れそうにないって。何なのよ」
 今日ここで会う約束なんかしていない。ノエルが来るはずがない。けれどもコトリは来た。自分にできるのは、ここで彼を待つことだけだと思ったからだ。
 9年前に、たった一度ノエルと会って、あの約束をした場所で。

 その夜もクリスマス・イヴだった。
 16歳だったコトリは家出して、知らない駅で電車を降り、商店街をさまよった。どの店もクリスマスの装飾が華やかで、街は浮かれた気分だった。いっそう気が滅入り、暗い方へと足を向け、細い坂道を上ったところで、この教会を見つけた。
 玄関ドアにリースが飾ってあるだけで、外観は地味だった。こぢんまりした建物の横に、不釣り合いなほど高いベルタワーがくっついていた。消灯していて、ひっそりしていた。裏口の鍵がなぜか開いていた。
 コトリはそこから忍び込んだ。ステンドグラスから星明りが降っていて、照明をつけなくてもじきに目が慣れた。礼拝堂を抜けて、ベルタワーに入り、螺旋状の階段を上った。
 自分の命を消すために。
 上り切ると、大きな鐘があり、周囲がちょっとした展望スペースになっていた。眼下には商店街の灯りがきらめき、向こうに暗い海と夜空があった。
 ベルタワーの足元に目をやると、底知れない黒い闇が口を開けて待っていた。風がやけに冷たかった。
「飛び降りるつもり?」
 背後から声がして、彼女は凍った。ふり向くと、長髪で、今より少しやせていて、まだ18歳だったノエルがいた。心地よい不思議な声をしていた。
「君が飛び降りたら、僕も飛び降りるよ。それでもいいの?」
「な」
 コトリは絶句した。親に干渉されすぎて、自分の人生じゃないみたいで、高校のクラスでは浮きまくり、けっこうえげつないこともされている。だから、もういいや、と思っていたのだが、この展開は想定外だった。
「あなたに関係ないでしょ」
 ノエルは笑った。
「関係あるかどうかは、関係ないんだ。君が飛び降りたら、僕も飛び降りる。とにかくその責任を、君が背負えるのかってこと」
「何、言ってるの」
「試してみる? でも君は飛び降りた後だから、僕が飛び降りるかどうかは確かめられないね」
「意地悪」
「そう?」ノエルはにやけて肩をすくめた。
 急に力が抜け、コトリはその場にしゃがみこんだ。本当は、死ぬのが怖かった。
「ところで、君は僕のために死ぬのを思いとどまってくれたわけだから、ひとつ、約束をしてくれないかな」
 飄々とした彼の態度に若干腹を立てながら、彼女は顔を上げた。
「……どんな」
「生きる、こと」
 その時、コトリはようやく、満天の星が輝いていることに気がついた。

 あれから今日まで、彼との「生きる」という約束を命綱にして彼女は生きてきた。連絡を取り合うことはなかった。そもそも連絡先を交換していないのだ。
 この教会を訪ねれば会えたのかもしれない。子どもの頃から、彼は食事目当てでここに通っていたと話していたから。でも、コトリはそうしなかった。しばらくして、動画共有サイトでノエルが曲を公開しているのを見つけた時も、コンタクトしなかった。爆発的に人気が出た後も、黙って見守った。
 迂闊に触れて、思い出を汚したくなかった。約束を壊したくなかった。
 実は「生きる」という約束を承諾する時、コトリは条件を提示していた。
 どうせノエルの方も似たような理由でクリスマス・イヴのベルタワーにいたのだろうと思ったし、あの日の彼からは自分と同じ匂いがした。だから。
「あなたも、生きること」それがコトリの条件だった。
 彼は複雑な表情で、しかし意外と素直にそれを呑んだ。
 この約束は自分だけでなく、ノエルの命も支えている。そう考えることで、コトリは今日まで頑張ってこられた。
「なのに……こんな投稿」
 スマートフォンを握る手が震える。体はすっかり冷えていた。教会で凍死したら、天使に会えるかな、と、ちらりと思って苦笑した時、短く一音、ピアノの音がした。それから、美しい和音が響き始める。
「あら野の果てに」の旋律だった。誘われるように階段を下り、クリスマスツリーの横を回り、礼拝堂を覗いた。
 演奏が止んだ。
「コトリ?」声の主がピアノの前で立ち上がり、窓からの星明りに青白く映えた。「まいったな。まさか、本当に会えるとはね」
 泣きそうな顔で、ノエルが微笑んでいた。

 ベルタワーの展望スペースは、昔と違い開口部にガラスが張られていた。
「転落防止ってこと?」
「さあ。僕も久しぶりなんだ。デビュー後は来てないから」
 でも、夜景は変わっていないねと、ノエルは故郷の港町へ視線を投げた。
「それで」コトリは彼に向き直った。「約束守れそうにないって、何のつもり? だいたい、恋人がいるのにこんな場所にいていいの? クリスマスだよ。略奪愛だか何だか知らないけど、言いたい人には言わせておけばいいじゃない」
「いや、そうじゃなくて……」言いかけて、ノエルは息を呑んだ。
 いきなり、街の灯りが消えたのだ。地上が漆黒の闇に覆われる。
「うそ、停電」
 コトリは茫然と、暗黒の地平を眺めた。闇に呑まれそうになる。ノエルがそっと横に来てくれたおかげで、平衡感覚を失わずにすんだ。
「真っ暗だ」彼がつぶやいた。「イエス・キリストが生まれたのも、こんな夜だったのかな」
 略奪愛は完全な誤解だと彼は語った。マネージャーは夫からDVを受けていた。仕事で世話になり、変な意味じゃなく大切な人だから、一時的にかくまった。そこをスクープされて、騒がれた。
「真実を公表すればいいのに」
「そんな暇なかった。今朝、彼女をシェルターに逃がした。そしたら、糸が切れたみたいに、自分でもわからなくなって」
「死にたいって?」
「いや。たぶん、助けてって、言いたかったんだ」
 突然、街に灯りが戻り始めた。まばゆい光が、みるみる闇に勝っていく。
 ノエルは涙ぐんでいる。
「キセキ、だな」
「まさか」コトリは言い返した。「奇跡なんかないよ。死んだら生き返らないよ。だから、生きてよ。約束したんだから。私だって」
「ここで」ノエルが遮った。「今夜コトリと会えたことが、僕にとってはキセキなんだ。君にも、それを信じてほしい。ここから、始めたいんだ。僕たちの関係を」
 彼の言葉が、街の無数の光とともに彼女を照らし、温める。そのキセキなら、コトリだって信じていたい。
 優しくて、力強い意志が生まれた。


◇見出しのイラストは、みんなのフォトギャラリーから、
_kei_さんの作品を使わせていただきました。
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眠れない夜に

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