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人間らしさ(生感)

 最近大学時代の先輩、現職カメラマンと対話する機会に恵まれた。生感の喪失という社会問題はカメラマンという職から見ても痛感するようだ。この記事を連想したので推敲し公開することとした。推敲といっても記事を書いていた当時の自分の意を汲みつつ、今現在の私の推敲なのでほどほどに適当である。書き方が大いに異なるのですぐわかるだろう。
2200字程度

2023/10
インターネット上にある文字ベース情報はビッグデータに集約される。
音声ベースは近い未来、映像ベースはまだ先。
それらは後世の人々に還元される資となるが、後世の歴史家はいま現在をどう評価するだろうか。



写真

 生の実感、私は生感(なまかん)といっている。寺山修司や三島由紀夫あたりを連想するだろう。時代を経るほどに生感は失われていっている。

 例えばフィルムカメラとデジタルカメラ(スマートフォンを含む)の違いである。写真はある世界の一コマを切り取る道具だが、デジタルになり連射やオート撮影、RAW現像が可能となり、ひとりひとりが機器を持てるほどに普及していった。つまり量で補い、その時でも後でも替わりのきくものであり、大量生産し普及したことにより、写真撮影というある種民俗学でいうハレ的なものが失われた。デジタルが普及し進化していくほどに、撮る側も撮られる側も、刹那の概念つまり生感が失われ、インターネットの海に沈んでいく。もしくは摩耗し風化していく。これはカメラのみに限ったことではなく、人類全体の問題である。

この問題の根源は個人の欲深さにあり、それが社会を形成し、研究者や政治家その他大勢に指向性を与える。



デジタルではない音楽公演(ライヴ)の醍醐味について

 ライヴでのみ伝わるモノがある。ライヴとは音楽愛好家の集う祭であり、流行り病によってライヴ中継という形が増え、ライヴハウスでの出演者とお客さんという陰陽混ざりて太極と成す祭、ハレ的なものが失われた。民俗学的視点でみれば出演者は神憑りであり、音や空間演出などを以てステージからライヴハウス空間全体へと身体的、心的領域を展開し、参加者(お客さん)をその領域に収める。参加者が多く、その演奏者に情熱を注ぐ者が多いほどにその情熱は互いに伝播しあい共鳴するが、ライヴハウスが感染の場として忌避されたことによって今時点においても来場者数の回復は乏しく、音はその行き先を見失ってしまった。

・CD(又はデジタル)音源とライヴ
・ライヴ中継の視聴とライヴハウスでの体感
・購入したライヴDVD視聴とYouTubeやInstagram等でのライヴ視聴

 これらをそれぞれ対として捉えてみると違いがお判りいただけるだろうか。全身で音を聞き雰囲気を味わうライヴの体感は、音源やライヴ視聴では再現できない。今でもレコードや真空管で音楽を聴く者や、フィルムカメラで撮影する者がいるのと同様だ。


 身体感覚をあまり用いないオンライン上、ウェブ上で、相手の気持ちや考えを慮るのは難しい。パソコンやインターネットの普及による時代柄として、写真や動画、スマホの普及によって視覚のみ強化されている。

 対面であれば仕草や立ち居振る舞いといった身体動作や雰囲気といった微妙なノンバーバルコミュニケーション(非言語による交流)があるので伝えたい言葉の意味背景を察しやすい。

現代はコロナ禍やオンライン化による弊害として、リアルな対人関係が希薄化しており、コロナ禍を以て個人のルーティンはディスプレイ(スマホやパソコン)内で完結するようになった。スマホで映画やアニメ、YouTubeなどに費やす日課が定着したことにより、仕事か自分時間かに二分されてきたように感じる。


ダイジェスト 祭心理学さんの記事を読んで

 結婚式場で当日ダイジェスト映像制作に携わってきたが、それと同様に思い出のハイライト化(具体化)は進んでいる。結婚式場での当日ダイジェストムービーは、ハレのうちのハレであり、ハレの場がお開きとなり俗へともう間もなく移るという場面転換として、時間の割り当てが綺麗に流れにはまっている。これと異なりAIによる思い出のハイライトというものは、一年前の今日はこのようなことをしていましたとか、自動で思い出のハイライトを構成して見せてくるので、生感によって築き上げてきた大事な一つ一つの想い出たちが、気付けばAIないしコンピュータによって創り上げられた虚像に成り代わっているのはなんともあはれなことだが、誰しもに影響を及ぼしている。

 コミュニケーションツールやSNSを退会、もしくは携帯を解約すると、その者はそのツールを使っている者たちから存在が認知されなくなってゆく。イメージとしてはアニメ、サイコパス1期のようなもので、例えばインスタグラムやラインをよく使用する人たちにおいてはそれらから得られる情報が主であり、それらに参加していない、もしくは退会した者とのやり取りや関する記憶は新しい記憶へと上書きされる。
 もう少しわかりやすく云えば、地方から都会へ出て都会で生活を築き上げた者は、地方との縁が薄くなり都会の記憶に上書きされてゆく。地方に暮らす親や友人との内的時間差が生じるほどに、その人たちとの記憶や感情が薄まる。自らの意志で選択した結果であればいいが、何事も悔いのないよう選択したいものだ。

 全身全霊を以て築き上げてきたものが高度高速情報化社会によって、唯脳論のような身体を必要としない社会へと向かっているようだ。

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