見出し画像

「世界で一番優しい人々」への恩返し


「世界で一番優しい人々」への恩返し

このnoteは、シエラレオネで支援活動を行うNPO法人アラジ代表理事(現31歳)下里夢美(しもさとゆめみ)が、未知の国シエラレオネに渡航し、活動を展開するまでになった等身大のストーリーです。

はじめて父ができた14歳、人生全てを変えたシエラレオネと出会った17歳、エボラ禍を経験し2年間渡航することが叶わなかった22歳、はじめての渡航で悔し泣きしながら帰国した24歳、子どもが2人でき、大きく価値観の変わった28歳、それらの過去を未来へと繋げるために、「自分の生きる理念」を忘れないよう、ここに、書いておくことにしました。

多くの人に、シエラレオネのことを知っていただき、アラジの仲間になってもらえたら。

幼少期〜思春期、家庭内不和

画像3

私は、山梨県の田舎町、春日居町(かすがいちょう)というところで産まれ育ちました。

両親は私が1歳になる頃に離婚。母は生活保護をもらいながら、女手一つで私を育ててくれました。

両親が2人ともいて、休日はきょうだいや家族と出かける、そんな当たり前のことができる他の子の家庭が、ひたすら羨ましかったのを覚えています。「人は生まれた家庭環境によって、将来の可能性が変わってしまう」と当時6歳の自分は本気で信じており、かなり擦れた子どもでした…。

そして、中学生になり、思春期真っ只中のある日、突然、母が「彼氏がいるから、再婚する!」と衝撃発言。

なんと、母より18歳も年上の、成人している娘さんが3人もいる、実業家の彼氏(55歳)を紹介されました(!)

中学2年生。反抗期。

あっという間に、名字が下里に変わり、父の養子となり、一軒家に引っ越し、3人での生活がはじまりました。私にとっては、初めての異性との同居。しかも、41歳も年が離れているからか、この頑固者の父(現73歳)と私は、恐ろしくウマがあわない。問題は山積みでした。

なかなかハードな人格形成期を過ごしましたが、母はいつもこう言ってくれました。

「夢を描けば、なんにだってなれる
どんなことにでも、挑戦していいんだよ」

シエラレオネとの出会い


高校生になると、吹奏楽の部活に打ち込み、トランぺットを担当しました。勉強と部活の両立、家庭環境、どれも辛いことばかりだったのですが、私には、明確な将来の目標があり、そのためならどんな努力も惜しまずに、やり続けることができました。

「将来は世界で一番平均寿命が短い国
シエラレオネ共和国の貧困を解決するために行動する」


17歳の時、テレビのドキュメンタリー番組「世界がもし100人の村だったら」をみたことがきっかけでした。8人の途上国のストリートチルドレンに焦点を当てた番組だったのですが、シエラレオネの男の子、アラジ君のストーリーは、私のその後の人生の全てを変えてしまうくらいの衝撃でした。

2002年まで続いた内戦で、国民の半分は難民となり、アラジ君の両親は、彼の目の前で首を切られ、レイプされ、亡くなりました。

たった8歳の裸足の男の子、アラジ君。弟たちを養うため、日々ガラクタを集め日銭を稼いで生活していました。

内戦のきっかけとなったのは、日本人が3か月分のお給料で買い求める、婚約指輪のダイヤモンド。

良質なダイヤモンド原石が採れるこの国で、手掘り労働採掘者の労働搾取、ダイヤモンドの密輸や武器取引を巡った、政府と反政府軍の複雑な戦いが繰り広げられていたのです。

アラジ君はいいました(写真はイメージです)

画像1

「お腹が空いた、でも、勉強がしたい」

私はこの言葉に強いショックを受けました。今、2000年の時代に、わずか8歳の戦争を体験した男の子が、勉強をすれば、家族を幸せにできるかもしれないと考えたことが、心底悔しかったのです。

と、同時にダイヤモンドの消費者である我々日本人は、歴史の傍観者だ。とも思いました。(私は当時、11年もの長いシエラレオネ内戦を何も知らずに、ポケットモンスター「ピカチュウ版」その後、金・銀を一生懸命やっていました…)

シエラレオネで起きた出来事を無視し続けてきた、日本や世界に対して、恥ずかしくもあり、憤りも感じました。

私には、家族がいる、学校にいって、勉強ができる。
夢を描けば、挑戦し、努力することができる。

でも、アラジ君は、これから先どんな夢を描いても、このまま努力を続けることは難しいだろう。

就職せずに、フリーターに。

その後私は、このテレビ番組を観たことをきっかけに、桜美林大学の「国際協力専攻」に進学、将来、シエラレオネで働きたい、そのためには、どんな団体に所属したらいいんだろう、学生団体は、あるんだろうか?そんな思いで学びはじめました。右も左もわからない状態でした。

期待して大学へ進みましたが、シエラレオネを専門に支援する団体は、日本にはなく、青年海外協力隊もシエラレオネには派遣されず、そして、日本大使館もない国、という情報がだんだんと見えてきました。

例えば、就職して、土日はボランティアしたり、寄付したりして、シエラレオネの貧困問題に貢献していく未来も想像しましたが、いざ就活をするとなると、どうしても企業で働いている自分は想像できませんでした。


「シエラレオネに挑戦しなかったら
死ぬ前に自分の人生を振り返ったときに
絶対に後悔する」


「何にでも挑戦していい」と言ってくれた母。大学卒業後、就職せずに、シエラレオネに行くことは反対されませんでした。

自分にも二人、子どもができた今さらながら、母一人で家庭を支える苦労も少しはわかるようになりました。そんな子育てと仕事の両方に苦労してきた母が、挑戦できると言ってくれました。

それから、私は就職せずに、自分でNPOを立ち上げるべく、活動をはじめました。

大学を卒業してすぐの2014年、アルバイトでお金をため、借金もして、返金不可の26万円もする、シエラレオネ行の航空券を買いました。

画像5
この写真は、バイト先の池尻大橋「誠屋ラーメン」で麺を茹でていた頃。


しかし、航空券を買った3日後に、旅行会社からメールが届きます。

「ルンギ国際空港行きの飛行機は
運航不可となりました。
再開の目途は、ありません」

最初の2年間、渡航できず

実は、航空券を購入してすぐ、一人目のエボラ出血熱の感染者が発見され、瞬く間に首都のフリータウンまで感染爆発が起きてしまった、ということでした。

事態はかなり深刻でした。このメールから2年間、エボラ出血熱の流行がおさまるまで、シエラレオネに渡航することが一切できませんでした。

大学を卒業し、なけなしのバイト代26万円を、シエラレオネへの航空券代につぎ込んだ私は、まさに出鼻をくじかれた思いで、途方に暮れてしまいました。

シエラレオネに行くために、就職もせずに準備してきたのに…!涙

未曾有のエボラ禍で、この後2年間も渡航ができなくなるとは、到底考えていませんでした。

しかし、2年間の間に、シエラレオネへの想いは1日も途切れることはありませんでした。

「世界のどこに生まれても、夢へのステップを平等に踏める社会にしたい」

私は、個人的に掲げたこの生きる理念に基づき、日本の若者の夢を応援するイベントを開催することにしました。

日本の若者の夢を応援するプレゼン大会のイベントを通して、収益をシエラレオネに寄付し、集まった大勢の方に、ついでにシエラレオネを知ってもらうというムーブメントです。

画像4
第3回ソーシャルドリームコンテストの集合写真社会をよくしたいという夢を描く若者を応援するムーブメントになりました。

年に1回、100名規模のプレゼン大会を開催、毎月の小規模のオフラインイベントは延べ200回ほど開催し、同時に私の「シエラレオネの貧困問題を解決したい!」という夢は、新しく対面した1,500人余りの人に届けることができました。

今思えば、なんの実績も、信用もないフリーターだった私に対して、ずっと応援し続けてくださる方がいることに本当に感謝です。

はじめてのシエラレオネ、撃沈…。

そして、2016年5月、エボラ出血熱が収束し、はじめてシエラレオネに渡航することができました。

画像17

未知の国、シエラレオネ。

到着したとたんに、目の前に立ちはだかる

広い海。

そして、海の向こうの首都

フリータウン。

ルンギ国際空港から、なぜか首都のフリータウンが
海で隔てられている…。

なぜ…?

なぜ、こっち側に、空港を作ったの…?(涙)

よくスーツケースを盗まれるという噂の現地タクシーや、よく沈むと噂されるボロボロのフェリーにビビりながら、なんとか海を越え、インターネットも繋がらない、水も出てこない、ネズミの糞だらけの地元の格安ゲストハウスに、なんとか辿りつくことができました。

画像19

当時、シエラレオネに渡航する人はなかなかおらず、インターネットには、日本語でほぼなんの情報もありませんでした。

人づてにきいた話しや、現地に住む日本人の方を頼っての1か月間の渡航でした。

「自分に何ができるか
この1か月で見定めるんだ!」

画像18

しかし、高い海外保険に入り、12本のワクチンを打ち、マラリアの予防薬を握りしめ、意気揚々とやってきた私は、現地で大人気のローカルフード「キャッサバリーフ」に撃沈します。

キャッサバのお芋の葉と、肉や野菜をドロドロに煮込んだ、見た目も味も衝撃の一品。

3日連続キャッサバリーフを食べたあと、日本食が急激に恋しくなり、自然と涙が出てきました。

1週間たった頃、夜中、猛烈な腹痛で起きました。停電中でした。ネズミとゴキブリが足元をうろつく、真っ暗なトイレにうずくまり、バケツに貯めた水を確認しながら「救急車って、くるのかな…?涙」とうなだれる。

深く、シエラレオネに来たことを後悔しました。

全然わからない、クリオ語。

1歩外を歩けば「チンチョンチャン!」とアジア人を揶揄する差別の嵐。

出かける約束をしても、時間通りに来ない人たちへのイラだち。

慣れないローカルフードに、長引く熱。

高いお金をかけてインターネットに繋ぐも、速度が遅すぎて、情報収集もままならず…

観光名所、コットンツリーの前にむがるストリートチルドレンや、赤ちゃんを抱えた女性たち、足のない車椅子の人々に、「ギブミーマネー」とすごい勢いですり寄られ、ビビッて逃げる毎日。

「貧しい国にただ学校を建ててあげても、何の解決にもならない、大人たちに就労してもらうことが正しいはずだ」

と息巻いて、農村部へ足を運ぶも…

1日1食しか食べられず、それでも勉強がしたい、学校が欲しいとすり寄ってくる、お腹が出た子どもたち。

SDGs(持続可能な開発目標=Goals)なんて知らない、初等教育も受けたことがない農村部の大人たちに、ただただ衝撃を受ける日々でした。

そうして、一度目の渡航、私の行動は、何にもならず。

悔し涙を流しながら、帰国してたのでありました。

ちゃんちゃん…。


母「いつ辞めるの?そろそろ就職とか結婚とかね」


当時25歳。好きなことをやっていいとは言われつつも、両親や周りには大変な心配をかけており、その後も、悪銭苦闘な渡航を1年半で3回繰り返す私に、両親は毎回この言葉を投げてきました。

渡航するための資金が足りず、100万円ほどのリボ払いで借金を重ねていました。

しかし、めげずに何度も足を運び、現場での波乱万丈をSNSで発信し続けていくうちに、渡航費を支援してくださる方や、まだ任意団体の私たちに寄付をしてくださる方が増えました。

寄付をもらってしまったら、いよいよ辞められなくなるな…。

はじめは、こんな本音もあり
人から応援される恐怖もありましたが…。

自然と覚悟をすることができ、3度目の渡航後に、日本で活動していた2年間の間に、身近で応援し続けてくれた10人の理事と一緒に、「NPO法人アラジ」をつくりました。

あの日、テレビでみた男の子アラジ君から、NPO法人アラジができたのです。

その後も、諦めずに挑戦していくうちに…

画像6


2017年には、火事で家を失ったテーラー15名と一緒に、シエラレオネの魅力を伝える、アフリカ布の商品制作事業がスタートしました。

画像7

同年、農村部での小学校支援もスタートしました!
現在までに3校、延べ1,000名へ支援を届けています。

その後も、都市の土砂災害で両親を失った子どもの里親宅に、継続して現金給付を届ける、支援事業がはじまりました!

また、2018年には、首都フリータウンに現地オフィスがオープン、2021年にはケネマ県にも現地オフィスがオープン、現地人スタッフは3名になりました。

画像9

シエラレオネの国営テレビ番組、ラジオ放送にも取り上げられ、その様子を、テレビ東京「世界ナゼそこに?日本人」に同時に密着取材される、という経験もしました。

大変驚いたことに、シエラレオネのビオ大統領と並んで新聞の一面記事にもなりました。

キャプチャ

相変わらずアルバイトをしながら、現地を5回も行ったり来たり、無茶苦茶をやっていましたが、今まで心配していた親や親戚、地元の友達は、テレビの前でスタンバイしてくれていました。

「テレビみたよ!頑張ってるね!」

「高校の時からの夢を実現していて、感動した!」

「これからもずっと応援するね!」

番組が終わった後には、今まで心配をかけ、どこか納得していなかった両親からも、激励の言葉をもらいました。

そして、サポートを届ける子どもたちの家庭で、私の名前である「Yume」という名前を授かった赤ちゃんが誕生しました!(2人います…笑)

こちらはYumeくん(男の子)
まさかのジェンダーレス。

その後も事業は大きくなり…

妊娠した女子の復学禁止令が取り下げられてわずか3カ月後の2021年3月、10代のシングルマザーの女の子達の復学支援がスタートしました。

2022年より、アラジのマンスリーサポーターさんが300名以上と急激に増え、現在50名以上の女の子が学校に復学することができました。

10代の女の子が、望まない妊娠をしない社会、課題の根本解決を目指し、男子中高生への性教育プログラムがスタート。68校2万名以上への子どもたちに性教育を届けることができています。

また、みずほ銀行公益信託様、Panasonic様、LUSH様、積水ハウス様など多方面で大きなご支援をいただけるようになりました。

青年版国民栄誉賞TOYPで、ファイナリストに選ばれ、「NHK会長奨励賞」をいただきました。(左は松本薫さん!右は松坂大輔さん!)

私の活動に対して、心配し、反対していた人でさえも、いつからか応援してくれるようになりました。


アフリカが教えてくれた、「努力の正体」とは


下里さんは挑戦力がある

バイタリティがあって努力し続けている

活動をしていく中で、何度もそんな風に言われてきました。

「私が苦労し、努力し、挑戦してこられたのは、なぜなのか?」

それは、私が特別だったわけでも、天才だったわけでもありません。

私には、親の借金や介護もなく、自分自身に病気もなく、勉強を小学生から大学まで16年も続けることができた。一見当たり前のようなことですが、それらに恵まれていた。ただそれだけです。

特に、大学に行き、人生の恩師となる先生に出会い、その後の道を切り開くことができたのは、母が頑固者の父と再婚し、学費を払ってもらえてことが大きかったと思います。

その後も、私が苦手なことを補ってくれるスタッフや、プロボノがアラジに参加し、惜しみない協力をしてくれたかた今があります。

アラジでは現在も、農村部の学校に通うことのできない子どもたちや、都市部で両親を失い、勉学を続けることが困難な子どもたちのサポートをしています。

1日1食しか食べられず、勉強どころじゃない、努力したくても、働かなければならない、挑戦したくても、チャンスがない。

そんな環境にいる子どもたちが、例え夢を描いたとしても、努力を続けることは本当に難しい。

努力とは…

努力とは、目標を実現するために、心や身体を使ってつとめること。

であると言われています。

まずはじめに、そもそも努力できること。心と身体が、充実していること。

挑戦し続けられることは、当たり前のことではなく、本当に尊いことなのです。

私には、「安心や安全」という努力できる環境が、はじめから整っていただけなのです。

自分だけが成功できたと思う人は、周りの恵まれた環境に感謝し、これからは努力の継続が難しい人のサポートをするべきだと思います。人間、人より自分が有利と、優越感に浸ったら、それ以上成長できないないと思います。

自分が今、努力できていると考える人は、自分だけが物語の主人公だと思ってはいけません。思うように努力を積み上げられない人とぜひ一緒に歩んでください。

アフリカの人は、努力が足りない。時間を守らない、働かない。

だからいつまでも経済発展しないんだ。

よくこんな言葉を耳にします。

でも、本当にそうでしょうか?

初めから、アフリカは課題ばかりだから、何かをあげたい、教えてあげたいというマインドで彼らのもとを訪れることはよくないです。

尊厳を持って働いている人もおり、失礼になる可能性もあります。また、結果だけをみて、努力が足りないと、決めつけてはいけません。

「魚をあげるのではなく、魚の釣り方を教えてあげる」

という言葉がありますが、そもそも最低限の衣食住のない人々に対しては、ベーシックサービスの充実が不可欠です。魚を釣る体力もなく、釣り道具に投資する最初のリスクさえ負えないのかもしれません。彼らの生活する場所には、そもそも魚がいないのかもしれません。日本には、6歳まで無料でアクセスできる病院と薬局、小学校があります。また、50以上の現金給付による社会保障と、最後の手段の生活保護があります。

ビジネスにはリスクはつきものです。日本のコロナ禍の飲食店のように、外的要因で経済的に弱い立場になってしまったときに、公的な社会保障がなければ、人生レべルで立ちいかなくなる可能性があります。

里親家庭・片親家庭など弱い立場にある子どもが中等教育まで完了できない場合には、今すぐにでも公的なサポートがなされるべきです。しっかり読み書き計算を習得し、その後に幅広い未来を描く。どんな経済状況に陥っても、手を変え品を変え、生きていけるようになることが重要です。

同時に社会課題解決の手段として、ビジネスだけではなく、何かあったときに頼ることのできる「公共の福祉」の充実も忘れてはならないと考えています。

努力は精神論ではなく、方法論なので、努力できる環境を整えることができれば、人は目標にむかって、変わることができると私は考えています。

私の考える方法は、尊厳を持って働くシエラレオネの人々自身が、機会を失ったシエラレオネ人を助けること。

そのサポートを、生涯かけて、すべきだと思っています。

私は物語の主人公ではなく、課題の代弁者です。

「世界で一番優しい人々」への恩返し

シエラレオネに魅了され、何度も行きたくなり、そして彼らに恩返しがしたいと強く想ったきっかけは、この国が魅力的すぎるからかもしれません。

2018年のWord Giving Indexによると、「見知らぬ人を助けたことがあるか」というランキングで、シエラレオネは世界で第一位になっています。(日本はワースト2位)

はじめての渡航で私はかなり体調を崩し、1か月で5kg痩せてしまいました。

みんな生活が大変なのに

「ユメ、ごはん食べてるか?」

「ユメ、体調は大丈夫なのか?」

「ユメ、うちにごはんを食べにきなさい」

と、ご近所中の人が声をかけてくれました。

私の知り合いのテーラーさん(布の仕立て屋)は、私の壊れたサンダルを引き取り、自分で靴屋さんにいって修理の仕方を教わり、私に修理したサンダルを再び渡してくれました。

2023年2月の渡航では、長距離バスでケネマ県から首都のフリータウンに帰ってきた際に、私のスーツケースをバスのスタッフがおろさずに引き返してしまい…

バス停にいた見知らぬおじさんが、私のスーツケースを取り換えるべく、三輪バイクのケケという乗り物にのって、バスを一緒に探し、大変な人込みからスーツケースを取り戻してくれました。

You are my HERO!

私は、シエラレオネの人々に恩返しがしたいです。

誰もが誰かの夢を応援し合える社会を、日本の皆さんと一緒に、日本とシエラレオネ双方で、実現していきたいと思っています。

未来の私たち


私たちは、これからも、自力では学校に通い続けることが困難な子どもたちに、教育の機会を提供し続けていきます。

より詳しい支援活動については、ぜひHPをご覧ください。

私たちが、より遠くへ挑戦し続けられているのは、毎月500円(1日15円)をサポートし続けてくださっている、マンスリーサポーターの皆様のおかげです。

実は、一度の大きな寄付よりも、毎月少しづつ支援をして下さる人がたくさん増えるほうが、活動としてはリスクが少なく継続性があり、計画も立てやすいため、とてもありがたいのです。


もし、マンスリーサポーターとして、アラジに参加したい!

一緒に子どもたちの未来を変える、アラジの仲間になりたい!


という方がいましたら、「info@alazi.org」へご連絡ください。

1対1のオンライン面談で、詳細をご案内することも可能ですし、アラジ公式HPから、そうっとご支援くださることも可能です。

そして、いつも現場で奮闘してくれている現地スタッフや、現地パートナー団体には本当に感謝しています。

また、顔の見えないシエラレオネの人々を想い、努力して稼いだ貴重なお金を、毎月サポートしてくださる日本の皆様に、心から感謝いたします。


私にできる唯一のことは、健康に学び続け、行動し続け、現状を変えるために努力し続けることだと思っています。


70歳まで、この活動を続けていく、覚悟はできています。

小さなストリートチルドレン

赤ちゃんを抱っこし物乞いを続けるガリガリに痩せた女性

シエラレオネに行くたびに、"何もできず"無力な自分が嫌だった。

でも、今の私たちなら、できる。

現状を変えることができます。

これからも、アラジがもっと遠くまで行き、一番サポートを必要としている人々の最初のチャンスになれるよう、応援していただけますと幸いです。

月額500円(1日15円)から、アラジの活動に参加できます。

マンスリーサポ―ターとしてアラジの仲間になって、一緒に課題解決への活動に加わってください。

スクリーンショット 2022-09-09 104021

アラジのマンスリーサポーターになる


平日10時~17時・土曜日の10時~12時に、30分間の1対1お話会を開催しています!ご興味のある方は、お気軽にお申込みください!

下里と1対1でお話する

下里夢美

この記事が参加している募集

自己紹介

習慣にしていること

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?