見出し画像

堤婆達多(文殊菩薩のおはなし)

妙法蓮華経 堤婆達多品

堤婆達多(だいばだった/ディーバダッタ)は仏教上の極悪人のような表現で伝わっていますが、地獄を理解するうえで非常に大切な要素になるでしょう。
読み始めたばかりなので、何を得られるかは今後の文殊菩薩のお話でつないでいきたいです。

このYouTubeは解説が極端かもしれませんが、いわんやこうゆうことなのだという筋はわかります。

提婆達多といえば、宇賀神さんの陀羅尼経で「堤婆達多心」としてあらわれます。
最終的には、こちらの教本では善根功徳を積み修業を重ねたときに菩薩となり宇賀神将菩薩があらわれ、貧を転じるという話です。

 しかし、堤婆達多を知ると「善根功徳」を積むことはなかなか容易なことではないこともわかるのです。

まず、堤婆達多とは?というところから探求がはじまるのですが、もしこの記事を読まれている人がいたら、ご自身で「堤婆達多」を探り知っていただきたいです。

行動の根本にある理由に「嫉妬」や「恨み」、「怒り」がある場合、その行く末の姿が堤婆達多(ディーバダッタ)の生涯の姿として語られています。

彼は五逆罪(ごぎゃくざい)に抵触する罪を犯したため、生きながら無間地獄に落ちたといわれている。なお彼が犯したとされる五逆罪にあたる行為とは以下の通りである。破和合僧(はわごうそう)、釈迦教団を出て分派活動を行った[5]
出仏身血(すいぶつしんけつ)、霊鷲山の山頂から大石を落として釈迦仏の足の指から出血させた[6]

Wikipedia

生きながらの阿鼻地獄・無限地獄。
四苦八苦
五蘊盛苦

堤婆達多の罪と苦しみとは何か。
まず、この苦しみである「四苦八苦」と「五陰盛苦」についても知らなければならない。

生苦(しょうく)
生まれることに起因する苦しみ。
老苦(ろうく)
老いていくことに起因する苦しみ。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる。
病苦(びょうく)
様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる。
死苦(しく) 
死ぬことへの恐怖、その先の不安などの自覚。免れることのできない死という苦しみ。また、死ぬときの苦しみ、あるいは死によって生ずるさまざまな苦しみ。

さらに複雑化し、

愛別離苦(あいべつりく)
親・兄弟・妻子など愛する者と生別・死別する苦しみ。愛する者と別離すること
怨憎会苦(おんぞうえく)
 怨み憎んでいる者に会う苦しみ
求不得苦(ぐふとくく)
 求める物が思うように得られない苦しみ
五蘊取蘊(ごうんしゅく) - 五蘊盛苦(ごうんじょうく)とも。五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならない苦しみ

goo辞書 四苦八苦の解説 - 三省堂 新明解四字熟語辞

 生苦にまつわる苦悩が私には理解が及ばず想像が難しいのですが、もしかしたら「生まれた意味」に迷いを感じたり「生まれたことへの否定」する苦しみのことなのでしょうか。

この四苦八苦・・・
「苦しみ」というとちょっと実感しにくいですが、「不安」や「悩み」の要因と置き換えるとなんだか想像が湧きませんか?
 阿鼻地獄というのはこの「苦しみ」を寝ても起きてもどんなときでもピッタリと離れずつきまとう。「認知」してる世界が苦しみだからです。
 この四苦八苦はその人の認知を歪めていますから行動も言動も、他人とのやり取りもすれ違いが増えおかしかなります。
 精神を蝕み常に苛まれ寝ても起きても気分がすぐれることなくまとわりつく。不安で不安で仕方がない。

聞いたことあるような状況だな、と思いませんか?なにか人生に躓いた時、何をしても上手く行かない時。
そう、挫折を味わったあの時に。

 今はどうですか?抜け出してる人も多くいるはずです。「あの時は大変だった」と言えるのではないでしょうか。「今も大変だけどなんとか頑張っているよ」と。
 そしてもし身近に同じ思いや苦しい人がいれば「大丈夫、あなたにも出来るから頑張れ」と応援するのですが、なかなか地獄には届きにくい。いかせん「抜け出した世界」というものが地獄にいる者にはわからないのですから。わからないからそれを「乗り越える経験をする」ことが重要になるのです。

宇賀神の陀羅尼経では、善根功徳を積み修行することで貧から転じられる、と説かれています。

おそらくですが、堤婆達多はこの阿鼻地獄、無限地獄の苦しみから、自分がなぜ罪を犯したのか、何が罪だったのかを悟っていくのではないかと思うのです。

「善根」とは、
無貪(むとん)・無瞋(むしん)・無痴(むち)
「功徳」とは、
善根を養うことによる報いであり、自身にしか得られないもの、例えば経験だとか、知恵だとか、自信、成果。

善根に関しては私も覚えがある。
まさに四苦八苦に苛まれていたときに読んだ懺悔偈だ。

我昔所造諸悪業
(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡
(かいゆうむしとんじんち)
従身語意之所生
(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔
(いっさいがこんかいさんげ)

 大体、心を病んでる時は己の愚かさや行いの毒が溜まり自分は間違っていたのでないかと薄々わかってはいるものの、
「自分は間違っていない」という絶対に認めたくないマンの自己矛盾真っ只中。
引くに引けないから突っ切るしかないのだが、もう突っ切れない。まさに八方塞がりになっていました。

 そんな自身の心にグサーーっと、脳天にビリビリビリと落雷を受けたかのように、恥ずかしく、虚しく、自分の愚かさに悶絶です。
ボロボロ泣きました。

 この懺悔偈を声に出して読んだときに、自分の恥ずかしさも愚かさもすべて受け入れて自分を変えていこうという勇気を持ち、決意しました。自分の愚かさをまっすぐ受け止めるのは容易ではないです。また、年齢が遅ければ遅いほど頑固な汚れに自分でもうんざりするし、どこから手を付けようかと思うほど。
 
 この懺悔偈を読んだからって今日の明日ですぐ変わりません。その強い明確な意思とともに長い年月をかけて行動を自律しながら経験を積む。

文殊菩薩はいいました。
智慧をつけなさい。学びなさい。
自分の人生を「真摯に受け止めること」が生きることであり、学ぶことだと。

飽きたからやめればいい
できないからやめればいい

そうではなく、目の前のこと、自分自身の問題に「真摯」になること。
そして、人の時間は長いようで短いということも忘れないでください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?