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I Recall, Therefore, I Am

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山あり谷ありの海外生活。今思えば毎日が自分を作る・伸ばすチャンスの場でした。チャンスをつかんだこともあれば、逃したこともある。そして今振り返ってやっと”あれがチャンスだったんだ”…
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#毎日note

バレンタインデーとキラキライケメン

2月14日を真剣に“やってやろう”と思ったのは高1の時、一度だけだった。それ以降は勝負をかけていない。 一応言っておくとまだ昭和の時代である。 同じクラスになった彼はなんと小学校4年時のクラスメイトで、私が引越しで転校するまでの1年間毎日顔を合わせていた。それ以来の再会となったのだが、私は顔を見て名札を見ても一瞬彼がわからなかった。 小学校の時はごく普通のぽっちゃりさんで勉強でも運動でも目立たず、特に何とも記憶に残らない男子だったその彼が、キラキラと輝く背が高いロン毛のイケ

スパルタのカラオケ in 中国

アメリカの大学院でやや燃え尽きていた私は2000年の頭に中国で英語を教える職を得、1年間の予定で引っ越しました。中国語も話せず、右も左もわからずでしたが、なんやかんやで5年以上そこで仕事をしました。 決して中国の暮らしが性に合っていたわけではありません。どちらかというと毎日 ”早く出たい、中国から遠く離れたところに行きたい” と切望していました。あれから随分時間もたち、今振り返ると理不尽で不公平で腹立たしい思い出が山ほどある中、中国で学んだ大切なこと・・・自分のことだったり

サワディカーしか言わない女

昨日知り合った 和歌子さんのnote を読んで、図々しくも似たような経験をしているな〜と勝手に共感し、もっと勝手に親近感もおぼえている。 彼女がお住いのタイについての記事も嬉しい。私はタイが日本に次いで好きだからだ。タイの話はこちら↓ 自分が書いている自分の経験もどこかでどなたかが読んで下さって親近感を感じたり、違いに驚いたり、そりゃねぇぜと唖然としたり、そうだそうだと共感していただいてるのかな・・・そうだといいなぁ〜うれしいなぁ〜 さて、その大好きな国、タイのあれこれを

音楽が連れてくる過去

学生の頃聴いていた音楽は“今”を楽しむものだった。 若い私は 今現在を楽しんだり、しんみりしたり、涙を流したり、愛を語ったりするために、この曲がふさわしいとかあのバンドのレコードをかけよう、と音楽を決める。 この歳になると音楽は過去を連れてくる。 今楽しんで聞いていたとしても、なぜか過去と直結している。 訪れた場所や、馴染みの喫茶店や、好きだった人や、私を振ったバカヤロゥなどにスルスルと繋がっている。 それは多分新しい曲を聞いたとしても、その詞であったりメロディであったり、

泥の女

アメリカに留学している時にフラメンコの教室を見つけ週に2回通うことにした。 中級から上級、プロの方もいるスタジオで、私は超初心者のため、先生がひとりついてくれ、最初の2日は2時間づつみっちり色々なステップの練習をした。年配の先生は 練習したら上手になるわよ〜筋がいいわ〜 と褒めてくれ、褒められて伸びるタイプの私は次のレッスン日まで家でウキウキでカタカタと練習した。 フラメンコシューズもふわふわのスカートも教えられたダウンタウンのダンス専用の店で一番安いものをとりあえず揃えた

目の色は何だった?

もうずっと昔、まだアメリカに来たての私は教科書やら雑誌やら映画やらで叩き込まれた ”アメリカの図” を頭の中に持っていた。フレンドリーで、人種や文化の違いがあらゆる場面で見られ、言語も習慣も多彩な国。単一民族国家から来た私がここに来た時には 右を向いても左を向いても 同じ顔や同じ様な格好の人がいるわけではないとは重々承知の上でアメリカ生活を始めた。 クラスメイトや寮の中、教授や職員、など身近に接する人も本当に色々な人たちがいて当時言われていた”人種のるつぼ”や”サラダボウル

チートスドリトススキットル

タイトルが何のことやらわかる人、さてはアメリカのおやつが好きですね! アメリカの大学に進学する前の女子大時代、3度長い休みを使ってカリフォルニア州にホームステイと語学留学をしました。1度目は本当にアメリカ体験!みたいな特に学校に行くこともなく軍人ホストファミリーとの生活や観光のみだったのですが(ここで読めます)、2度目はカリフォルニア大学のESLに通い、1日6時間の集中授業を受けるという “ちゃんとした” 留学でした。 その時点で私の英語は一応ESLの一番上のクラスで、大

あなたには入らないよ、と言われた服

あなたはブティックに入った時に、 “あなたのサイズの洋服はないですよ” と言われたことがありますか? 私はあります!笑←今だから笑える 中国に住んでいた時の話ですが(もう20年近く前です)、その当時一般的に現地の女性はとても細くて薄っぺらく(すみません)、若い子は特に華奢な体型の方がほとんどで、日本では普通体型の私も彼女たちに比べるとぽっちゃり(というかデブ)とみなされていました。 若い子が買う洋服の店は日本のXSとかSが”普通”で、Mくらいのものの表示は現地ではXLでし

動かないモデル

この写真を撮ったときに思い出したことがあった。(シマリス見えますか?) 同じ様なポーズをとったことがある。両手を壁について腰をひねってこちらを見る。そしてこちら側には私を凝視しながら手を動かす人がたくさんいた。 アメリカの大学院にいたときにモデルをしたことがある。どこで誰に声をかけられたのか詳しくは覚えてないのだが、美術系の専門学校でヌードモデルをしないかと誘われたのがきっかけだった。デッサンモデルだ。 その学校はいろんな人種と体型と年齢のモデルに来てもらっていたのだが

イケメンラオワイと知らん人の結婚式

中国の大都市で働いていた時にボーイフレンドと郊外にあるリゾートホテルに週末だけのプチバーケーションに出かけたことがあった。 出来たばかりのホテルには美しい中庭や大きなプールもあり、ロビーもレストランもピカピカで私たちはチェックインする時にホテルの厚意でアップグレードしてもらい、なんと生まれて初めてスイートルームに宿泊した。 まぁ、厚意というかハメられたというか・・・ホテルがアップグレードと引き換えにお願いして来たのは、ボーイフレンドに広告のモデルになってほしいという事だった

簡単で誰にもできる仕事って?

庭のタンポポを見て思い出しました。 “タンポポを刺身トレーに乗せるだけのお仕事です“ 本当にこんな求人が出ている・出ていたのか、ネットで目にしただけなのかわかりませんが、私はそんなお仕事もあるよなぁ、誰かがタンポポ乗せてくれないとお刺身トレーはさみしいし、と思っていました。 この一文だととても簡単で誰でも出来て、だから時給が低い、ような印象を受けます。ベルトコンベアーで運ばれるか、隣の人から出来上がった刺身のトレーを ほいっほいっ と送られるかはわかりませんが、字面だけ

もう決まったから変えられない

バスの中で髪の毛を撫でられた。 ストレートのウエストまであるロングヘアの頃で、大学からの帰りのバスだった。 ミネアポリスのダウンタウンへ向かうバスの中はちょうど仕事や学校帰りの人たちで混雑しており、私は黄色い手すりを掴んで外の風景を見ていた。 後ろの誰かが髪を触ったのがわかる。でも揺れるバスのせいだったかもしれない、と振り返りはしなかった。ちょっとしてもう一度、今度は耳の下から背中の中程までをつーっとたどるように撫でたのがわかり、これは故意に触っているのだとわかった。

Raspberry Beret: 赤い髪が歌う

極寒のミネソタ州で過ごした大学時代は偶然だけど音楽にまつわる思い出が多い。 以前書いたプリンスの思い出、デビューした友人、どちらもミネアポリスでの話だ。 大学3年の時の友人は留学生が多く、その中の何人かはプロで通用する様な音楽の腕前を持っていた。 ウッドベース、バイオリン、マンドリン、ウクレレ、弦がついていれば何でも弾けたドイツ人のマックス。 ピアノ、ドラムス、マリンバ、ハーモニカ、弦がついていないものは何でも上手だったフランス人のドミニーク。 フラメンコ、クラッシック、エレ

私という私の”作品”

Noteを始めてよかったなぁと思うことは多いのですが、その中でも自分にとってギリギリセーフで間に合って良かったな、と感じるのはこれまでの人生を振り返って思い出や生活の断片をなるべく本当のバージョンに近い形で文字に残せることです。 ギリギリセーフというのはこの歳になると忘れてしまうような小さな出来事、何度かしか会えなかった人々、忘れるためにわざと思い出さなかったあれこれが、まだ割ときちんとした形として記憶に残っているからです。 自分の人生のイベント(になったもの)を時系列に