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泥の女

アメリカに留学している時にフラメンコの教室を見つけ週に2回通うことにした。
中級から上級、プロの方もいるスタジオで、私は超初心者のため、先生がひとりついてくれ、最初の2日は2時間づつみっちり色々なステップの練習をした。年配の先生は 練習したら上手になるわよ〜筋がいいわ〜 と褒めてくれ、褒められて伸びるタイプの私は次のレッスン日まで家でウキウキでカタカタと練習した。

フラメンコシューズもふわふわのスカートも教えられたダウンタウンのダンス専用の店で一番安いものをとりあえず揃えた。
金属がついた靴を履き、ひらひらふわふわのフラメンコスカートを身につけると、なんとなくサマになるのが嬉しくて、毎週練習日が楽しみになった。

2ヶ月が過ぎた頃、先生が 月曜と木曜に通っている日本人の生徒の自転車が盗まれてしまい、足がないので、あなたが迎えに行ってくれない? と頼んできた。
私のレッスン日は火曜と金曜なので彼女との接点はなく、そのスタジオにもう1人日本人がいることは初耳だった。

先生は日本人同士だから私が彼女を迎えに行けばいい、と思ったのだろう。

電話番号を教えられたので、彼女に次のレッスン日に迎えに行くことを伝えたが、彼女から ありがとう、とか、お手数おかけします、などの言葉はなかった。電話を切ってから、ちょっと失礼じゃないか、とも思ったけれど、見ず知らずの日本人がいきなり電話をかけてきたので怪しんでいるのかもしれない。

彼女を拾うために10分ほど回り道をしないといけないのでちょっと早く家を出て、時間通りに到着した。彼女はその時から無愛想だった。
こんにちは、と言ったきり、車の中でも私がふった当たり障りのない話題には乗ってこなかったので、最後の5分くらいは黙ったままだった。

レッスン中彼女は私よりもずっと上手だったから違うグループで発表会の振り付けを練習し、私は鏡の前で、他の初心者と一緒にリズムに合わせてステップとターンの練習をした。ちょっとづつ進歩しているのが面白く、みんなで褒めあいながらの楽しい時間だった。

帰りの車の中で、次のレッスン日も同じ時間に来るけど、近所のカフェのアイスコーヒーが美味しいからあなたの分もひとつ買ってこようか?と話しかけた。
その質問に対しての彼女の答えは

学生の分際でBMWなんかに乗って、アメリカに遊びに来てるだけじゃないの?

だった。

私はそんな不躾な日本人にそれまで出会ったことがなく、その時は彼女の質問を額面通りにとり、そのままの答えを返した。

前にアメ車で事故をした時に、次に買うのはドイツ車にしろと親に言われた。
ちゃんとアメリカで大学を卒業して現在は博士課程にいる。

そんなことを機嫌をとるようにニコニコと答えたが、彼女は私の答えには全く興味を示さず、ますますぶすっとした表情になった。

次のレッスン日に迎えに行った時も同じような態度で、車に乗るなり 次からはバスで行くので、これが最後でいいです、と言われた。
ありがとうもすみませんもなかった。彼女は何が気にくわないのだろう。

OKと車を出し、自分だけアイスコーヒーを飲み、何も喋らず、自分の好きな音楽をかけてスタジオに向かった。彼女はそっぽを向いて外の風景を見ていた。
この人を乗せているだけで不快になる。その存在がドロドロに重く苦しい。
今回が最後で本当に良かった。

その日のレッスンは次の発表会で全員で踊るダンスの練習だった。
初心者もプロも一緒に踊るセビヤナスというスペインのセビリアでお祭りの時に踊る陽気な音楽にのせた楽しいダンスだ。
向こう側に踊る彼女の顔をちらっと見ると、到底陽気とは言えない表情で手足を動かしている。ダンスは上手なのだからもっと笑顔でいいのになぁ、と心配になるほどのむっすり顔だった。
私はダンスの振りをなかなか覚えられず、周りの皆さんに手取り足取り教えていただきながら、ようやく一つのダンスを踊り終えた。次回までこの振りを覚えていることはないな、こんなんで発表会とか出ていいのかな?と不安になった。

帰り道は私のボーイフレンドも一緒だった。スタジオの入り口でニコニコと手を振る彼を見て彼女の顔はますます険しくなった。あぁこのまま彼女をここにおいて帰りたい。こんなどす黒いものを乗せたくない。

車内では彼女は後部座席に座り、私と彼は普段通り、今夜は生姜焼きでもしようか〜 などとたわいもない会話を始めた。
私は彼女に話をふろうなんて全く思っていなかったが、彼は彼女が無愛想なのを知らないので、いちいち後ろを振り返って 僕が料理するんだよ〜僕は日本のご飯が好きなんだよ〜 と話しかける。

そんな彼の話を遮って、彼女は 

なぜこの人と付き合ってるの?もっと可愛い日本人はたくさんいるじゃない、なぜこの人がいいの?と聞いた。下手な英語だったがはっきりとした口調だった。

そして 簡単なダンスも覚えられないのに、発表会に出られるとでも思ってるの? みたいなことも言った。英語で話しているので彼に伝えたかったのだろう。

私は黙っていた。この人は汚く重い泥みたいな人間なのだと思った。
人に泥を撫で付けて嫌な気持ちにさせたい、その人も自分と同じような泥で汚したいのだろう。そうして人に泥をなすりつけると、自分の中の泥はもっと濃くなり、他人に塗るための泥がもっと湧いてくる。

私は早くこいつを送り届けてドライバーとしての役を降りたい、としか考えておらず、彼女のつぶやきは丸々無視していた。怒るどころか恐ろしく不気味な気持ちがしていた。

だが彼は違った。ちょっとそこで車を止めて、と私に言うので路肩に止めてハザードを出すと

はい、降りて と彼女に優しい口調で言った。

あそこにバス停があるからそこからバスで帰ってね、あなたが誰か知らないけれど、あなたの態度も口調も最低だ。せっかく送迎してくれている彼女に向かってそんなひどいことを言うなんて最悪だ。

彼女は無言で車を出たが、彼に向かって 
こんな遅い時間はバスがないかもしれないのに と咎めるように言った。

彼は That’s your problem と冷たく言い放ち、ドアをバタンと閉めると 

生姜焼きの付け合わせにちょうどいい大きなトマトが冷蔵庫にあったね と微笑んだ。まるでズボンの裾についた泥をパンパンと払うような弾んだ声だった。

バックミラーをちらっと見ると、彼女がその場で地団駄を踏んでいるのが見えた。
地団駄を踏む大人を見たのは初めてだったが、そんな彼女の動きを見て

そんな動きじゃあなたの泥は落ちないだろ、と冷たく思った。


その日を最後にフラメンコ教室はやめた。電話口で、どうして辞めるの、と聞かれたけれど、あんな泥の女と引き合わせたあなたのせいだ、とは先生には言えなかった。


シマフィー

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