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たぶん世界は三つある。

向き合っているパソコンなりスマホなりの画面。
その奥の世界には何があるのだろう。

リアルな世界から事実を切とりったもの。
リアルな世界に対する誰かの解釈、あるいは誤った認識。
リアルな世界とは無関係な虚構、妄想。
リアルタイムではないどこかの時点。
時間のない仮想空間。
そして、知らない誰かの日常の破片。

そんなものが混沌とした0と1の世界を手繰ると、誰かの何かと繋がる。

どんな時間でも、そう、これを書いているこんな午前4時30分でも。


間違いなくリアルと言えるのは、自分の目の前に見えている世界だ。

今、外を眺めれば、天気予報と子供達の期待を裏切るような、ぎりぎり雪にはならない極寒の雨。

その温度や匂い、音、まだ明けない空の色。

それらは、ここに間違いなく存在している。


それとは別に、今の時代は画面の向こうの混沌とした時代がある。

しかし、その混沌とした世界は今は必須となってしまったくせに、その中で生きるのがまた難しい。

自分のリアルを偽りなく投影すること、それができる人は『 しあわせ 』な人だ。

画面の向こうの世界で『 良し 』とされているのは、

美しいもの、
綺麗なもの、
憧れるもの、
積極的なもの、
学びとなるもの、
欲を満たすもの。

価値観が多様化とは、誰かを否定することを『 悪し 』とした結果、これらの範囲が広がったにすぎない、と時折感じる。


そして、つらく澱んだようなものは、これもまた『悪し』とされ、結局のところ人々は見てみぬふり、又は見もしない。
これらは沈黙の中で静かに溺れてゆく。

そこからどうにか這い上がりたくてもどうにもならず、独りで耐えたりもがいたりする状態に、もはや共感や美徳はない時代になった。


『 しあわせ 』な人は、偽りなく自分をそのまま発信して、『 良し 』とされるものを披露し、それに承認欲求を満たす評価がついてくる。

すると、日常が楽しくなる、
その日常をまた発信する、
それがまた承認される。

その上がるしかない輪廻を回っていれば、ますます幸運がやってくる。

『 引き寄せ 』、などと言われるように。


つらく澱んだような想いだけを背負ったまま何かを発信しても、誰も見向きはしないだろう。

当り前のことだ、『 良し 』とされるものが好まれるのは道理なのだ。



かなり以前にnoteを使い始めてから、ずっと疑問だった。

noteは優しい、
noteを使っていると楽しい、
noteを始めたら自分が変わった、
そんな『 良し』とされる言葉ばかり並んでいるのが不気味にさえ思えた。


既に『 しあわせ 』な人にとっては、楽しいだろう。

つらく澱んだものしかなかったとしても、それを拭いさり『 良し 』とされる方向へ変わる時間と自由と意思があれば、変われるだろう。


この0と1の世界で生き生きとするには、結局のところ『 良し 』とされる自分でいる必要がある。

だれしも、リアルな世界ではある程度はいい人だったりいい顔をしていたり、そんな側面を持っている。

今やリアルと併存するこの0と1の必須な世界もまた、『 良し 』と認識される自分でいなければ、認めてはもらえないのだ。


字ずらだけいいことを発信するのは簡単なこと。

実際、そうすればある程度は誰かの目に留まる。

noteでそんな発信をしていた時期があった。

でも、そんな自分が、わたしにとっては全く自分らしいとは思えない。
気持ち悪いとすら思う時があった。

本当の自分、などと誰もが口にしながら、つらくて澱んだものにまみれながら必死で生きている自分を本気で見せても、それは見向きもされない。

確かに、そう、自分らしく生きていないからこそ、生まれ続けるつらさや澱みがある。


しかし、それが今の本当の自分の精一杯なのに、認めてはもらえない。

多分、本当に知ってもらいたいことはそれなのに、
皆が他人に求めるのは、『 良し 』とされるもの。
明らかに齟齬がある。
『 良し 』とされるものが伴わなければ、誰もが明後日の方を見て笑いながら、足早に通り過ぎてゆくだけ。
note街とはそんな所なのだろう、と理解した。

0と1の世界で見向きもされないのは、そこで生きていないも同然かもしれない。



ならば、何のためにわたしはわざわざnoteを書くのだろうか。


答えは、昨日見た映画の中の一言が教えてくれた。

その物語の主人公の少年は、彼が言うには孤独だった。

物語の主題は、彼は本当は孤独ではなく周りの人たちがちゃんと彼を見ていた、それに彼は気がついていなかった、ということだ。

ただ、わたしには、自分を孤独だと思っていた彼の一言が最も心に響いた。


絵を描くのが好きな孤独なその少年が呟いた言葉とは、

『キャンバスの向こうの世界が、
僕だけの世界だ』



…… ああ、わたしも同じだ、と直感的に心に刺さった。

わたしも、ただ文字を書くのが好きだ。

こうして、思うがままに、誰にも邪魔されない時間に自分と向き合いながら、自分の頭の中を目に見えるものにしている。

そうして造り上げたものだけが、わたしを解ってくれて、
わたしの居場所なのだと思った。


noteをわざわざ使っているのは、
単にその作業が比較的やりやすいツールだからだ。

とはいえ、パソコンもスマホもnoteとは相性が悪いらしく、頻繁にフリーズしたり不具合を起こす。

思えば、滑稽だけどリアルだ。

つらくて澱んだようなものしかないわたしが、美しいnoteの世界を使っているのだから、確かに相性が悪く不具合を起こしてもおかしくない。




たぶん、世界は三つある。

目の前に起こっているリアルな出来事の世界。

0と1の必須の世界。

そして、自分と自分が造り上げたものだけの世界。


三つ目なんて、誰にでも見せる必要のない日記と同じかもしれない。

それでも、わざわざこうして誰かが読める状態にしておくのは、

きっと、世界のどこかで苦しんでいる、
つらくて澱んだものを背負わざるをえない、
そんな誰かのもとに、
一言でも届いたらいいな、と思うから。


誰もが、常に笑って楽しことだけに恵まれ生きられるとは限らない。

どうしても抗えないものを背負ってしまう
こともある。


誰かを助けられるなんて偉そうなことは思わないけれど、

わたしが孤独の底にいた時、

風に乗った花びらがふわりと身体に舞い降りてくれるように、

ほんの些細なもので

誰かの寄り添ってくれるような何かが欲しかった


…… そんなものに、ほんの少しでもなれたらいいなと思うから。


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