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1−10 臨界


ホワイトな色調に突き経つ寡黙な輪郭が、来訪者の内容積を押し広げる。輪郭が攫われた時、私たちは目眩に襲われる。網膜を駆け抜ける景色が不意にその形を見失ったとき、溶け合う世界に対し、私たちの視点はその許容を超えるのだ。黒瀬花春の個展『始まりに帰る終わりに告げる』が示唆するもの、それは如何に我々の認知が不明瞭な輪郭に覆われているかーーー

「……くだらない批評です」

黒瀬花春は開いた掌をそっと紙面に覆い被せる。その仕草が物語るのは、寡黙な失望だった。

「貴女の雑誌からは、言うに堪えない腐臭がします」
「存じてます。でも腐ったものの方が、人の鼻につくんです」

美術雑誌『ノーヴスアーフ』現代美術の草分け的雑誌、若手美術家の登竜門、この雑誌にその名が掲載されれば学術分野、富裕層のインテリゲンチャ共の目にとまり、本格的な美術活動の足掛けとなる。その雑誌で特集を組まれる事はつまり、日本美術史に名を残す事と同義なのだ。なのに黒瀬花春の瞳は……暗澹な未来を見据えてるようだった。

「早苗さん、美術の意義って何だと思う?」
「さあ。ピカソは『心に降り積もった塵を払うもの』と形容したそうですね」
「……その格言、流行ってるの?」

私は首を傾げた。

「どういう意味ですか?」
「別に……ところで、考えて来てくれた?究極の芸術とは何か」

そういえばそんな事を言っていたな、すっかり忘れていた。こういう場合は濁すに限る。

「何故そんな質問を?」
「会館初日、一人のお客さんに尋ねられたの。批評家なのかな、面倒臭そうな男に」
「花春さんは何て答えたんですか」
「貴方が言葉で形容するのを諦めるもの、それが究極の芸術です」
「パンチ効いてますね」
「すると男はこう言った『ならこの世に究極の芸術は存在しえない』」
「負けず嫌いなんですかね、その男」
「かもしれない。で、早苗さんの答えは?」

まいったなぁ。どう答えよう。困った困った。こういう時は素直に限る。

「貴女の血です」

正直者の欲望者、私の欲望は臨界点を優に超えていたらしい。私の言葉を聞いた黒瀬花春の顔は、子供のように無垢な疑問符を表していた。そしてその鼻の穴から私たちの運命がゆるりと流れ出る。赤黒い運命が今、世界に伝う。



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