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「見た目」の技術化、言いかえれば「見た目のいい・わるいの自己責任化」…(日記 2024/8/17 土)

久しぶりに朝早く動き出せた休日。溜まっていた家事やゴミ捨てを少し進めることができた。昨日からの耳に水が入ってつまるような感じ(耳閉感というらしい)が今日も続いていて不安。ただ、耳鼻科が土日と開いていないのでどうしたものか。

遠くに見える鈴鹿山脈の上に雲がかかっているのが見える。鈴鹿山脈がこちらへの雲を堰き止めているのか、あるいは山の上だから雲ができるのか。

私は11歳の時からTwitterをやっていて、ということはTwitter歴15年になるのだけど、何年か前までは「投稿する文章が美しいから」「共感できるから」といった理由でフォロワーの多いアカウントがままあった。しかしいまではその理由でフォロワーが増えるケースは減ったように思う。

インターネット上で不特定多数に向けて、自分の写真をアップロードすることが普通になり(私が高校生のときには信じられなかったことだ!)、いまや見た目がいい人間ばかり簡単にフォロワーが増える(特に女性は)。
イラストや料理が上手いなど、人目をひく何らかの技術がなくとも、要は「何者か」でなくとも、見た目さえよければツイート内容など関係なくフォロワーが増える。なんらかの技術を苦心して身につけずとも、見た目がよければ「何者か」であり、人気を博しているように感じられる。まるで大根役者がその見た目に引き寄せられたファンの数から名俳優だと錯覚させるかのように。

雑な憶測を述べれば、これはルッキズムの進行、あるいは「見た目」の技術化、言いかえれば「見た目のいい・わるいの自己責任化」が進んでいるように感じる。「見た目」の良さに関わる「努力」にばかり焦点が当てられ、その裏に必ずあるはずの遺伝問題や資金力の多寡、その資金を産むためのなんらかの反道徳的な営み、その価値観を補強し続ける構造的な問題などはわざと見逃され、あくまで美しさとは努力である、といった建前で若者の顔・スタイルが毎秒ジャッジされていく。アイドルでもないのに。

皮肉にもこれこそが安直な反ルッキズムの核心かもしれない。「見た目だけ見るのはやめよう、ただ見た目をよくする努力は誉めよう」という。しかしこれは欺瞞である。

ひとりで一日中家にいると、実際は本を読んだり家事をしたりしていても「何もしていない」と感じてしまって、外に出て何かしなければいけないような強迫観念に駆られる。お盆に実家にいたときは一日中本を読んでいてもそんなことは感じなかった。誰かがそばにいてその人と話すことは、自分の行動の証として当人に必要なのかもしれない。

大戸屋の期間限定のバカでかいアジフライ定食の画像がTwitterで流れてきた。アジフライ好きの私としては見逃せるはずもなく、自転車を走らせて食べに行った。こんなに大きくなくてもいいかな……と思った。

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