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差し当たりライフワーク

最近は小説を書くどころか訳詞どころか作詞まで手を出すようになり、なんの因果か歌い出すようになりました。小説からどんどん離れていますがいつも念頭にあるのは自分の起点がここにあると思っているからでしょう。知り得て血肉となったものはきっとすべて小説に帰って行きます。

踊ってばかりの国の下津さんが日本語はダサい、日本語の作詞は下手な人がすっごい多いというようなことを言っていた気のする、昔の記事を少し前に読みました。自分はその意味が分からず、
「これはどういうことなんだろう。何がどうダサいと言っているのだろう」
と訊ねた知人にはよく分かるようで、その人の経験を踏まえて下津さんが言いたかったことをよくよく教えてくれるのですが、ぜんぜん忘れてしまうのは、毎日覚えることが多過ぎて、忘れることが多過ぎて、大事なことほど忘れてしまう、覚えていたいことが聞いたそばから一語一句抜け漏れて行く、しかし心と体は覚えているのです。思いがけず表出するその時のために、ひっそり横たわる。見たこと聞いたこと、意味のなさそうな私のやることは少しも意味がありそうです。

作詞と作詩は大いに違い、音楽に乗るからこそ心に届く言葉がある、力がある、見せられる世界がある、私がこれまで感動した音楽や歌詞には、それ相応の作り手の思いと秘密があるようです。自分はどこまでできるでしょうか。この音にはこの言葉しかないというところまで文字を削ぎ落とし、精神を切り詰め、偶然と必然の交差をかたちにして行きます。そうまでしないと人の心には届かない、時代を越えて語り継がれることはないでしょう。そんなすごいこと私はできないでしょうか? できない気がしません。少なくとも片鱗には触れられるような気がするのです。何故なら言葉を扱うからです。言葉とは人間です。言葉とは歪な人間です。歪を愛する「あらわれ」です。人前で失敗せずにハードルを跳べ、二枚のレコードのピッチを合わせてきれいに繋げろ、歌い出しを間違えるな、親族と仲良くしろ、これらは大変苦手で緊張しますが、そうしなくてはと思うほど失敗しますが、言葉を使うことだけは煌めきから逃れられません。しかしあれ? 相も変わらず私には読者がほとんどいませんね。私はいつだって素晴らしいのに、この文章の素敵さが分からないのは世の中が追いついていないのだと思います。大変勿体ないと感じます。しかし自分のやり方を変える気はありません、変えなければならないのは、お金のために擦り寄る時です。日銭のために物書きをしたくないのです。

朝焼けの中、巨大な青いオウムが翼を広げて空高く舞い、近所の美しい公園で爆音で流されている謎スピリチュアル音楽が、私の寝室の窓越しに木漏れ日のよう届くのです。作詞。そんな私の日常の差し当たってのライフワークです。


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