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車内の「咳・くしゃみ」に対しての理解

「人として最低だな」と自分に対して猛烈に思った今日の出来事。

テレワークではなく毎日会社へ出社のため交通機関を利用している。職場から自宅へ帰る快速電車の中。あたりを見回すと殆どの人が耳にイヤホンを差し込み小さなスマホの画面に夢中、私はというと耳にイヤホンを差し込み、アナウンスが聞こえる程度の音量を流しながら小説を読んでいた。

うっすらと「日暮里〜日暮里〜」とアナウンスが聞こえ、何の意図もなく顔を上げた。ちなみに常磐線は東京都から千葉県、茨城県が繋がっているため通常めちゃくちゃ混み合う。私は始発乗車だからこそ座れるけれど、品川・新橋・東京・上野を過ぎると満員に近い状態だ。

そのはずなのに今日は、私から見て左斜め前の座席の前だけがめちゃくちゃ空いていた。「どうして?」と思い様子を伺ってすぐに分かったことは、その座席に座っていた40代くらいの女性がマスクをし、その上からハンカチで口元を押さえながらも、咳が止まらない状態だ、ということ。そこで瞬間的に察知した。「咳してる人のそばに誰も寄りたくないのか」と。そう思った瞬間、納得したのと同時に私、「人として最低だな」とも思ったのだ。

〜〜〜

咳やくしゃみは、言うまでもなく埃や菌を排出するための生理現象でしかない。それが、このコロナウイルスによって、その行為自体に抵抗を強く抱くようになった。コロナ流行以前から抵抗があったとしても「さらに強く」ということは誰もが感じ取る部分だろう。はっきり言う。私の場合、自分の咳でも他人の咳での過剰に反応し「菌」を認識していた。「近寄りたくない、離れたい、触れたくない、手を洗いたい」という思いは、飛沫感染への必死の抵抗からだけれども。

例えばあの40代の女性の咳が、アレルギー反応で出てしまう止めたいのに止められない辛さだったとしたら。呼吸困難で苦しがっていたとしたら。それでもきっと今日、私があの女性の隣の席に座っていたり、前に立っていたら、私は「菌」を意識し、菌にではなく、その菌があるかもしれない女性に対して嫌悪感を持ってしまうんじゃないか。心の中で「最悪」と呟き違う車両に移動すらしてしまうのではないか。

離れた席にいたからこそ「もし自分だったら」という視点で考え、そして今の自分の卑劣さを思い知った。悪いのはウイルスなのに、私は人間を否定しようとしていた。よくない、本当に良くない。深く反省している。勿論飛沫感染だから、距離を空けることは自己保守のため有効な手段だけど、だからと言って、人間を否定していいことにはならない。私は間違えていた。


そしてもし、私があの女性だったら。アレルギーで咳が止まらないけれど、どうしても電車に乗らなくてはいけない。マスクをしてハンカチを当てて(もしかしたら薬も飲んで)いるのに、周囲が自分を避けて行く。その状態が目の前で起これば、私はきっと私自身を責めてしまう。「みんなが私を嫌がっている」と思ってしまう。コロナ差別というワードをニュースで当初はよく取り上げられていて、私はその言葉を目にするたびに「心のない酷い人もいるもんだな」と思っていたけれど、きっと私も彼らと変わらない。いつの間にかウイルスを憎むことよりも、人に対しての冷たさを大きくしてしまっていたような気がする。

とは言っても、やっぱり目の前で咳をする人がいれば離れてしまう。だって私には大切な人たちがいて、その人たちを守る義務があるから。それでも、そうであったとしても。たとえ名前の知らない人でも、その人のことを悪く思うことはもうしないでいようと思う。悪いのはウイルスだ。人間じゃない。いくら先行きが不安でも、感情的な部分をウイルスに侵略されてはいけない。


誰かのことを悪く考えるのは、もう辞めたい。そう思った。





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