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良いと思わないのが正解だったかもしれない映画をそれなりに楽しんでしまったことについて――ヴィム・ヴェンダースの『PERFECT DAYS』
気にかかる部分がないではなかったけれど、概ね心地よく、それなりに人生について考えるなどもしつつ観終えたそのあとになって、製作の経緯や関係者の素性などを知り「これはミスったかな?」と思った。
役者の力か、音楽がよかったのか、単調なようで実は巧みなリズム感をもった編集のたまものなのか、シンプルに画の美しさなのか……と、向こうの勝因候補はすぐに幾らでも挙げられるのだが、一番はたぶん私自身が主人公の生活
宮﨑駿『君たちはどう生きるか』を観た話
二〇一三年、『風立ちぬ』のときは観た直後から三日ほどひどく落ち込んでしまった。落ち込む、という表現が適切かは心許ないのだが、いずれにしても私の精神に明確な負の影響を与えたことはたしかで、それは作品としての否定しがたい物凄さと、このようなものを肯定するわけにはいかないという強烈な忌まわしさとが同時に、せめぎ合うというのですらなく両立していたことに対する戸惑いの結果だったのかもしれない。冒頭から絶えず
もっとみる亡霊とのホモソーシャル――キューブリックの『シャイニング』を初めて観た話
これまでキューブリックの『シャイニング』を観たことがなかった。キングの原作も読んでいない。怖そうだったからだ。
怖そう、というのはしかし実のところ不正確で、もう少し丁寧に解きほぐすと「断片的な情報や映像からは正直なところそこまで怖くも感じられないのだが、にもかかわらず誰もが「あれは怖い」と口を揃えて言うので、よほど想像もつかない恐怖が待ち構えているのだろうと尻込みしていた」ということになる。ジャ
新海誠『すずめの戸締まり』寸感――あるいは「自己犠牲の物語」を拒否しながら「セカイとキミの二者択一」をかわす方法
先ほど観てきたので、寸感をいささか未整理のまま。
地震、みみず、とくればこれはもうどうしたって村上春樹「かえるくん、東京を救う」を(知っていれば)思い起こさざるをえないのだし、さらには同作が引喩的に登場するアニメ『輪るピングドラム』にも(見ていれば)連想は飛ぶかもしれない。ものすごく雑駁に括ってしまえばこれらは「自己犠牲の物語」といえるだろうが、本作がそのオマージュというよりむしろアンチテーゼを
国葬、このあまりにチープな対立軸
奇妙に寒々しくがらんとした空間の底に据えられた弔辞のためのマイク、との対比で巨大さがわかるかつての宰相の遺影。国葬会場の報道写真を目にして私は、いよいよ権威主義国家然とした面目を露骨に示してはばからないこの国の現状と、どこまでも拭いきれないその「ごっこ」感とをそのなかに同時に看取ったような言い知れぬやるせなさを感じていた。とはいえ権威主義国家というものが押し並べて一種の、しかし壮大な「ごっこ」を必
もっとみるでもやるんだよ人文学
根本敬の『因果鉄道の夜』に出てくるという「でもやるんだよ」という言葉が、戦後日本のサブカル史において最も広く深く共有された警句の一つであることは間違いないだろう。と言いつつ「という」などと怪しげな伝聞形を用いたのは、恥ずかしながら原典にに直接ふれたことがないからだ。その本の初版が出たころにはまだ辛うじて人語を解するくらいの年齢だったような世代の私が出会ったのは、無数にある引用のなかでも孫引き・曾孫
もっとみる私たちの「分断の感覚」を深める要因のうち、最も不毛なものの一つについて
インターネットとりわけTwitterのようなSNSを閲覧しているなかで軽蔑や怒りや絶望といったネガティヴな感情が喚起され、反復されて日常にべったりと沁みつき、いつしかこの世界そのものについて深い「分断の感覚」を生きるようになってしまう。そうした感情をもたらす要因の第一はもちろん赦しがたく下劣な差別的言辞や誹謗中傷の数々であるわけだが、必ずしもそういうものではない、しかしどうにも癪に障るといった類の
もっとみる成長から解像度へ――押見修造『惡の華』と古宮海『可愛そうにね、元気くん』
最近、単行本が完結した古宮海『可愛そうにね、元気くん』(全八巻、集英社、二〇一九―二〇二一)という漫画がある。宝島社の『このマンガがすごい!』に取り上げられるなどそれなりに話題にもなり、私もかなりいい作品だったと思う。
ところでこれを読んだとき、あるていど漫画を知っているひとならおそらく瞬時に連想するのが押見修造の『惡の華』(全一一巻、講談社、二〇一〇―二〇一四)だろう。実際、両者の基本的な構造
エヴァと批評と陰謀論――あるいは「シン・」なるもののナカグロについて
今さら敢えて言うことでもないのだが、一九九五年のテレビシリーズに始まる「エヴァンゲリオン」の日本コンテンツ史における画期的かつ特異的なポイントは、何よりもそれが生み出した膨大な語りとテクストの量にこそあった。作中のあちこちに散りばめられて必ずしも伏線として回収されるわけでもない大量の符牒は「謎」として様々な読解を誘い、その蓄積と残滓は現在もなおインターネットにおいて一種の集合知を形成している。よく
もっとみるアライさんの手――吉田秋生『海街diary』のこと
吉田秋生の『海街diary』(全九巻、小学館、二〇〇七―二〇一八)で最も印象的な登場人物は誰か。
そう尋ねられて「アライさん」と、実際に答えるひとはひょっとすると少数派かもしれないが、仮にそう言ったとしてことさら異議を唱えられることは――まあ、奇を衒ったなとは思われかねないにしても――案外ないような気がする。未読のままこの文章に目を通してくださっている奇特な方のために説明しておくと(そもそもど
ポリコレ仕掛けのロマンス――雨隠ギド『おとなりに銀河』はどう「すごい」のか
雨隠ギドの『おとなりに銀河』(既刊一巻、講談社、2020-)がよい、そしてすごい。
ここで「よい」と「すごい」は若干異なる角度からの誉め言葉になっていて、まず「よい」のほうはロマンティック・コメディとしての魅力の高さに対する単純な詠嘆でありそれ以上の分析の余地はあまりない。問題は「すごい」のほうである。つまりこの作品は一体どう「すごい」のか――それを説明するのがこの文章の目的ということになる。
記号・孤独・ヒーリング――阿部共実『潮が舞い子が舞い』を読むための三つの視座
阿部共実『潮が舞い子が舞い』(既刊五巻、秋田書店、2019―)は、とある「海辺の田舎町」で「高校2年生の男女が織りなす青春群像コメディ」である(単行本カバーより)。ここに堂々銘打たれている通り本作はきわめて上質な、この著者にしては驚くほど素直に楽しく愛おしい「コメディ」に仕上がっており、とりわけ初期に顕著であった「心がざわつく」系の仕掛けはほぼ見られない。また登場人物の数もまさに「群像」と呼ぶに
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