国葬、このあまりにチープな対立軸

奇妙に寒々しくがらんとした空間の底に据えられた弔辞のためのマイク、との対比で巨大さがわかるかつての宰相の遺影。国葬会場の報道写真を目にして私は、いよいよ権威主義国家然とした面目を露骨に示してはばからないこの国の現状と、どこまでも拭いきれないその「ごっこ」感とをそのなかに同時に看取ったような言い知れぬやるせなさを感じていた。とはいえ権威主義国家というものが押し並べて一種の、しかし壮大な「ごっこ」を必要とするのだとすれば、それは単なる矛盾でも不徹底の産物でもなく、実はことの本質そのものの表れだったのかもしれない。

が、それにしたってチープすぎるのではないか。というのはしかし、すでに多方面から(例えば先のエリザベス女王のそれと比較しつつ)揶揄されているセレモニーとしての貧弱さのことではない。私の感じたやるせなさ――そこにはひょっとすると怒りも混じっていたかもしれない――とは、それが何ら国を挙げた本気の「ごっこ」たりえていないこと、そして何より彼らがそれでよしとしたことに向けられていた、と思う。

この際、割合のことは措いておこう。反対派が強調するように国民の六割が国葬を評価していないというのは事実かもしれないし、一般献花に訪れた人びとの長蛇の列を指して賛成派が誇るごとく「サイレントマジョリティ」は国葬を当然のこととして受け入れていたと言われればまあ、さもありなんという気もする。だがいずれにせよ、というかそれ以前に私は、ネットだけでなく従来のマスメディアまでもが「反対派」「賛成派」などという言辞を用いて世論の分断を既成事実化してしまっていること自体に、ほとほとうんざりしていた。なぜなら国葬の実施がいかに愚行であろうと、またイデオロギー以前に予算の不透明性とか決定プロセスといった点で看過しがたい不誠実を含んでいようと、そしてそれゆえに反対論が噴出することがいかに正当であろうと、まがりなりにも近代国家の「国民」を二分する争点の代表を張るにはあまりにもお粗末な気がしてならないのである。

大事なところなので慎重に説明したいのだが、私は(上にも譲歩節によって示唆したように)国葬に反対の声を挙げるのは全く当然のことだと思っているし、そうした言説や行動を冷笑する気はない、つもりだ(*1)。国葬なんてくだらない、世の中にはもっと差し迫ったイシューがたくさんあるだろう――というのも一理あるし私自身そう思わなくもないのだが、しかしほかでもない賛成派(その多くは右派的政治観をもっていると想定される)が反対論への対抗にかこつけて外国人生活保護を攻撃するという愚劣なふるまいに出た以上(*2)、強いて国葬のイシューとして重要性を貶めるのは、少なくとも左派的立場からの反対派(反対派の全てが左派的であるとは限らないので)には得策ではないだろう。

じゃあどういうことなのかと言うと、まずそもそもの話として「反対派が存在することはどこまでポジティヴに受け止めうるのか」ということが問題になってくる。もちろん国民のほぼ全員が国葬に諸手を挙げて賛成し、あるいは賛成していることにされて、各地方自治体も何ら疑いなく公的な弔意を示して誰もそれに異議を唱えないという状況――敢えて反対の声を挙げるのは完全に少数の抵抗者に限られており、ともすれば苛烈な弾圧さえ生じかねない状況――よりは、まだしも反対派が一定数いてかつ公然と自らの意見を唱えられる現状のほうがマシであるというのは、否定できない。だがそんなのは賛成派でも容易に言えることである(「お前たちが安全に反対運動をできている時点で……云々」)。私が思うにもっと根深い問題は、反対派の抗議活動があったところでそのパワーが直接体制を揺るがす抵抗になる見込みなどないと高を括っている政権の足元で、ただ反対派と賛成派の水平的な分断が深まっていくばかりの状況は、当の政権にとって無痛であるどころか有益でさえあるのだろう、という点にある。

おそらく私たちが漠然とイメージするような、世の隅々まで権威の行きわたった「全体主義国家」を現実に作り上げるには相当な手間がかかるに違いない。そして今の日本には、そういうものを積極的に構築する能力もリソースもないことは明らかである。というより、そんなことをする必要自体はじめからないのだと思う。したがって日本「国民」全員がほんとうに国葬を熱烈に支持する可能性など、たぶん政権の誰も信じていないし、そうさせたいとも別に思っていないのではないか。実際、ある人が言ったとされる「終わったら反対していた人たちも、必ずよかったと思うはず。日本人ならね」という一言は(*3)、まさしく事前に反対論が出ること自体は許容しつつ、そのうえで①その勢力が後々まで自らに対する脅威として残存する可能性はないという楽観的な見通しを示し(=「必ずよかったと思うはず」)、しかし同時に②国葬をめぐって生じた分断線がアイデンティティのレベルにかかわる亀裂として刻まれることを確信している(=「日本人ならね」)。このような、おのれに致命的な矛先の向く心配のない分断の深まりが統治者にとって基本的に有益であることは言うまでもない。

つまり「まがりなりにも近代国家の「国民」を二分する争点の代表を張るにはあまりにもお粗末」であると言ったのは、こんなくだらないことにわざわざ反対したって仕方ないということではなく、むしろこんなくだらないことに反対せねばならない状況に持ち込まれたことへのやるせなさであり、さらに言えば怒りであった。選択的であれ夫婦別姓が実現したり、あくまでも過渡的な一歩であれ同性「婚」が認められたり、入管法の改悪が阻止されたりというのは、少なからぬ益の伴う勝利であろう。それに対し国葬の実施を阻止したところで、そもそも無用なことがおこなわれないだけである。マイナスがゼロのなることが無意味とは言わないが、いずれにせよ分断線がこの一事をもっていっそう濃く引かれてしまうことに変わりはないとすれば、このような対立軸が作られてしまった時点で傷はあまりに深いように思う。

献花に並ぶ人々へのインタビューをテレビで見ながら、そのすべてを私が理解できる言葉で、そのすべてが私には理解できない内容が語られるのを聞くことは、端的にいって苦痛であった。同じように賛成派の、少なくとも最も素朴な人たちは、反対派の故人に鞭打つようなふるまいを見て本気で理解に苦しんでいるのだろう。この言い知れぬかったるさを帯びた疼痛のような苦痛に、分断のリアリティはある。他者の他者性のような抽象的な倫理的命題に還元される手前で、私はこうした理解できなさによって分かたれてしまうことを、断じてあってはならない不当な事態であると素朴に直観している。

たしかに国葬には反対せねばならなかったが、そもそも国葬などに反対させられるべきではなかった。抵抗の無効化と分断線の深まり、このセットが繰り返されるその先には、手ずから理想の「全体主義国家」を作り出す能力もリソースもないままにいつのまにかなんとなく実現してしまう、リアルな全体主義国家があるのだろう。

かなり危うい淵に立った言いざまであることは承知している。この絶望から冷笑に振りきることなく耐えるのは、正直なところかなり難しい。だが結局のところ――逆説的にも――私たちは「反対」すべきことに反対しつづけるしかないのだと思う。ただしその宛先は「賛成派」などではなく権力であることを、見誤ることのないようにのみ注意を払いながら。


(*1)つもりだ、などと語尾で日和ったのは現に私自身はほぼほぼ脱力しきって特に何の声も挙げてこなかったからで、それをも冷笑と数える向きに対しては何の言い訳を持ち合わせていない。
(*2)これは左派的なマルチイシュー主義の驚くべき反転的換骨奪胎として特筆すべき動きであった。国葬と外国人生活保護を「無関係」と言ってしまうことは、私の感覚では左派としてはありえないことなのだが、しかし右派はここでこれら二つのイシューの左派的な意味での関連性を否定したうえで、つまり無関係なものとして敢えて関係づけながら「反対」という形式のみを右派的な主張に着せ替えている。したがって両者の関係づけにロジックはないのだが、ないからこそ左派が本来見出すべき二つのイシューのロジカルな関連性もまた予め無効化されてしまう。きわめて卑劣で巧妙だが、実は左派がマルチイシュー的視点を疎かにしてきたツケでもあるのではないかという気がしてならない。
(*3)https://news.yahoo.co.jp/articles/99a3bb63b09c20df24403a9ed325a7ff0e0692fc



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