エヴァと批評と陰謀論――あるいは「シン・」なるもののナカグロについて

今さら敢えて言うことでもないのだが、一九九五年のテレビシリーズに始まる「エヴァンゲリオン」の日本コンテンツ史における画期的かつ特異的なポイントは、何よりもそれが生み出した膨大な語りとテクストの量にこそあった。作中のあちこちに散りばめられて必ずしも伏線として回収されるわけでもない大量の符牒は「謎」として様々な読解を誘い、その蓄積と残滓は現在もなおインターネットにおいて一種の集合知を形成している。よく理解できないと思った箇所については適当に関連するキーワードを打ち込んで検索してみれば、たいてい誰かが何らかの答えを出してくれているだろう。便利な世の中である。

しかしながら他方でこうした状況は「エヴァ」について新たに――とりわけ批評的な手つきでもって――語ろうというモチベーションを削いでしまうようにも思われる。少なくとも私自身は、この膨大な「考察」の海を前に果たして「批評」にできることはまだあるのだろうかと途方に暮れてしまう。ここで「考察」というのはアカデミックな論文のタイトルとかにある一般名詞としてのそれではなく、特定のコンテンツについて(主にネットで)専らその謎を解き明かすというスタンスで著された有象無象のテクストを指す(しばしば「ネタバレ考察」などとも自称される)。こうした「考察」文化の淵源の一つが「エヴァ」をめぐる語りにあることは、別に論証する気はないがまあほぼ確実だろう。そして先ほどの口吻からもおわかりのように、私はこの「考察」を「批評」とは似て非なる別物として、基本的には捉えている。

ではその両者を隔てるものは一体何だろうか。それを考えるのにちょうどいい事例が、ちょっと前に話題になった、映画『スリー・ビルボード』にかんする一連の記事である。その書き手は「深読み探偵」を名乗り、作中の細かな描写を異様なまでに「深読み」することで、同作の核心をなす事件の「真犯人」を暴き出すと称していたのだが、なんとそれらの記事が全て予告編だけを見て書かれたものだったことが明らかとなり軽く炎上したのだった。ちなみに私は、本編を見ずに解説を書くというのも一つの立派な「芸」であってそこに何かしらの倫理的な瑕疵があるとは全く思わないタイプである。問題は手段よりも、むしろ目的のうちにある。つまりこの一件から私たちが受け取るべき教訓とは、作品の隠された意味(この場合は「真犯人」)なるものはどんなところからも、仮に作品そのものが存在しなかったとしても立ち現れうるということ尽きるのだ。実際「深読み探偵」がやっていることというのは(もう誰も覚えていないかもしれないが)そのまた数年前に泡沫的なブレイクをしたある芸人のリズムネタを「反日」の符牒に満ちたものとして中傷した流言と、それほど大差ない。要するに「意味」などというのはその程度のものであり、しかしその程度にすぎないものを求めて酷く厄介な暴力が生じうる――ここに考えるべき問題がある。

これを端的に言い替えるなら、作品の「意味」にフォーカスする「考察」は陰謀論と地続きのものであるということになるだろう。逆に、陰謀論に対して――それを完全に排除することはできないにせよ――ある程度のバリアを自らのうちに備えていることこそが「批評」の条件だとも言えるかもしれない。そのために必要なものは、おそらく二つある。一つはここまでの論旨が示す通り「意味」や「真実」への欲望を相対化すること、もう一つは「メタレベル」に対するまなざしを常に確保してしておくことである。

私が「エヴァ」について(何でもいいのだが、例えば)「マリはアスカの母親である」ということを言ったとする。この言明を文字通り、作品内の隠された設定としてアスカとマリの間に血縁関係を主張するものと受け取るならばそれは「考察」の次元において理解されたことになろう。では同じ文章を文字通りでない仕方で読むことはできるだろうか。第一の方策は、言うまでもなくそれを比喩的に受け取ることである。つまり「マリはアスカ(にとって)の母親(のような存在)である」などと補ってあげるわけだが、これはそのままでは理解しがたい文を理解可能な領域に引き寄せる方向の読み替えと言えるかもしれない。

しかし「文字通り」からの逸脱には、実はまた別の――批評的な、と呼びうる――道行きがある。比喩的なそれとは反対に、問題の文を既知の領域から敢えて遠ざけることによって新しい意味を開くような読み方である。つまりこのときマリはたしかにアスカの「母親」(のようなものではなく、それそのもの)であるのだが、ただ「母親」という概念自体が、すでに私たちの見知ったものからは決定的に変質してしまっているわけだ。例えばそれによって「エヴァ」という物語の構造に作動している特定の機能を指し示す、というふうに。かくして措定される新しい意味の次元を「メタレベル」と呼ぶなら、あらゆる批評はメタレベルに対し常時接続可能でなければならない。もちろんそのうえで敢えて「ベタ」に徹する戦略もありうるとは思うが、その場合も接続の可能性自体は保障されていることが、さしあたっては重要である。これはテクストのいちジャンルとしての「批評」の特徴であるという以上に、あらゆるテクストが批評的(批判的)な意義をもつためには絶対に必要な条件だと私は思う。複数の社会的事象に通底する特定の「構造」を炙り出す営みを、全てを裏で操っている「陰謀」への妄執から――例えば「家父長制」を「イルミナティ」から――区別するのは、そうした批評的意義とそれを下支えする「メタレベル」への接続可能性にほかならないからだ。

最後にそのささやかな一例を「エヴァ」絡みのネタで実演しておこう。

二〇一六年の『シン・ゴジラ』に始まり、今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』から今夏公開予定の『シン・ウルトラマン』を経て、先日企画発表がなされた『シン・仮面ライダー』に至る一連の作品について、その共通の接頭辞「シン・」の意味を検索してみると、例によって様々な「考察」が目に飛び込んでくる。その多くは何かただ一つの正解を独断的に主張するというより(「真」「新」「神」など)考えうる多様な意味が読者の解釈に委ねられているとする微温的な内容に留まっているが、ここまで散々述べてきたように、この語の真意などというものは基本的にどうでもいい――少なくとも批評的な関心の対象とはなりえない。必要なのは焦点を「意味」から引き剥がして「メタレベル」にまなざしを向けることであった。それはこの場合、どういうことになるだろうか。

もちろん色々なアプローチが考えられるが、例えばここでは「シン」そのものよりも直後のナカグロ(「・」)に注目してみよう。先に挙げた四作はいずれも「シン」とそれが掛かる単語とのあいだに、必ずナカグロを置いている。これは些細なようでちょっとした発見かもしれない。もちろん、ただそうなっているという以上に語るべきことがない可能性もある。仮に語るべきことを捻り出せたとしても、記号の表層に戯れてみました程度の一芸に終わってしまうことも珍しくはない。だが幸いなことに今回はもう少し粘る余地がありそうだ。

実はあれら四作より前にも庵野秀明は一度「シン・」という接頭辞を突発的に用いていたことがあり、それが津田雅美の少女マンガを原作としたテレビアニメ『彼氏彼女の事情』(一九九八―九九)の第一八話(ACT.18.0)サブタイトル「シン・カ」だった。さらに興味深いのはこの話数に(一部)対応する原作版ACT25のタイトルが「SHINKA(進化/深化)」とされていたことである。単語に二重の意味を負わせるためにローマ字表記にすることは(それが何のダブルミーニングかまで丁寧に括弧書きで示してもらえるのは珍しいとしても)さして珍しいものでもない。そしてそれを庵野さんがカタカナに置き換えたのも、彼の美意識として容易に理解されるところである。知られているように、それ以前にも彼はテレビ版『新世紀エヴァンゲリオン』第二四話「最後のシ者」(死者/使者/渚)や、一九九七年の劇場版『シト新生』(使徒/死[DEATH]と新生[REBIRTH])などにおいて、とりわけシ音の多義性を活かした仕掛けをたびたび繰り出していた。

したがってこの「シン・カ」もまた同様の系譜に列せられるように思われるのだが、ここで足枷となるのがナカグロなのである。そもそもダブルミーニングにしたかっただけなら、別に「シンカ」でもよかったのではないか。というか少なくとも原作が念頭に置いていたのは「進化」と「深化」という熟語単位の同音異義なのだから、わざわざナカグロで区切ってはむしろ含意が余計に見えにくくなる。まあ、ひょっとするとそれこそが庵野さんの意図だったのかもしれないが、そこを深読みしてしまっては「考察」になってしまうからやめておこう(こういう罠が至るところに張り巡らされているから危ういのだ)。とにかくこのナカグロは一見した限り、何ら「意味」に資する役割を果たしていない。それどころか、意味を問う視点からすればノイズ以外の何物でもないように見える。

繰り返しになるが、それが本当に無意味であろうと、にわかには窺い知れない意味が隠されていようとどうでもいい。重要なのは、いずれにしてもこのナカグロがある絶大な効果を現に発揮しているという事実である。というのも仮にそれがなかったとしたら、例えば『シン・ゴジラ』は――存在しなかったとは必ずしも言えないにせよ――そのようなタイトルにはなっていなかった可能性は十分にあるだろうし、その結果として全く別物になっていたかもしれないではないか。意味としてはほとんど無に等しい一点が、それがもたらす微細な隔たりによって庵野さんに「シン・」という接頭辞を発見させたのだとしたら……。いや、余計な物語を空想することは控えよう。それはすでに「意味」の領域である。実際の経緯はどうであれ「シン・」の発生と増殖にはナカグロという記号が不可欠であったということ。それさえ確認できれば、私たちにとってはひとまず充分だ。

ナカグロにかんするこの長い注釈は、もちろんそれ自体としては大した批評的価値をもつものではない。あくまでもその最低条件としての「意味/真実の相対化」と「メタレベルの確保」という二つの手つきにかかわるミニマルな事例として、ちょうど手近であったことから紹介してみただけのものである。しかしながらこのように沈黙した記号の、意味未満の振動に目を凝らすようなある種の優しさこそが批評の「善さ」を案外下支えしているのかもしれないと、思ってみたりもするのだった。


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