『虎に翼』覚書①

ドラマ全般に疎く、そもそも何事においても習慣づけというものに難がありルーティン的な視聴自体が得意ではない私だが、そのあたりの甲斐性があるパートナーの存在と、オンデマンド視聴サービスの普及という、大きくこの二つの要因によって『虎に翼』を今に至るまで一話も欠かさず鑑賞することに成功している。で、本作について思ったことは別のところでそのつどポツポツと書いてきたのだが、このあたりでいったん、それらをまとめておこうと思い、以下の稿を起こしました。

1.無害な男たち+「母と娘」の物語

まず最初に巧いなと思ったのは身近な――家族とそのごく近しい周辺レベルの男性がみなトクシックでなく描かれていること。その代わりに、寅子の家庭内的な葛藤は専ら母親との関係に集約されます。ホモソーシャルな幻想としての「女の敵は女」言説が批判を集める昨今、母娘関係はその葛藤がシスターフッドの原理に抵触することなく切実なものとして描かれうる、ある種の特権的な領域になっています。この領域における葛藤と和解(和解も含むことが重要です)をまず初めに設定することが、のちに親密圏の外部すなわち「社会」における「男」という存在と寅子が対峙していくうえでの重要な足場、連帯の原初的な種になっているわけです。
ここで仮に敵方を単純に男性に設定し、父や兄や書生さんをマチズモの権化のように描いていたとしましょう。すると、①その和解を描くことは以後に続く男性社会批判の牙を丸めることになってしまうし、②和解を描かないならば、物語はある種の変形されたエディプスものの枠を出なくなってしまって、のちの本筋をこうも爽やかに軽やかに描いていくことは難しかったでしょう。ここが、いささかご都合主義的といわれたとしても、やはり重要な一手だったと思います。

2.寅子の政治的クエスト――フェミニズムの三つの課題

その後も、着実にストーリーを前に進めながら各段階に応じた政治的な主題を効率的に提示していく構成力は見事なもので、さしあたり法律との出会いから法学部卒業くらいまでに限るならば、それはおおよそ以下のような図式で捉えられると思います。

漠然とした「女性」(vs男性)という問題系がまず大づかみに自覚されます。これはお見合いの席での男性の言動や、大学内における女子部への「からかい」描写、裁判の傍聴などの経験を通じて描写されていました。

続いてそこに「階級」の問題が差し挟まれます。いまふうにインターセクショナリティといってもいいかもしれない。これは女子部の仲間たちとの交流のなかで少しずつ見えてくるものです。決定的なのはもちろんよねさんのバックグラウンドが明かされるフェイズですが、個人的に印象的だったのは花江さんが猪爪家の「女中」と間違えられたときの各人の発言で、見ている景色の違いをさらっと示しているのが巧妙でした。

③女子部を卒業し本科に進んだ彼女たちは束の間、一見すると性差も階級差も乗り超えられたかのような「平和」を満喫するのですが、すぐさま次のテーマすなわちメリトクラシーの問題が導入されます。能力の対価として与えられる平等(らしきもの)が根本的には何も解決していないことに寅子(たち)は気づかされていくわけです。

このように、フェミニズムを実装するうえで突き合わされるべき課題(というより家父長制と性差別カルチャーがそれら各フェイズにいかに根を張っているか)が順を追って実にわかりやすく提示されていきます。高等試験合格後の寅子のスピーチは、まさにこうした政治的クエストの非常に明快かつ感動的なおさらいになっていました。単なる中流階級のリーンイン・フェミニズム的な物語になりがちなところを回避し、ここまで複層的な問題を物語内に組み込みえたことは、シンプルに評価すべきだと思います(汚職事件では父・直言の「弱さ」がある意味で肯定的に描かれる場面もあり――検察の威圧的な手癖に法廷で文句をつける演技は白眉でした――男性学的なテーマにまで踏み込んでいたことも付記しておきます)。

3.戦争は背景からやってくる

ただ、ここまでの評価はあくまでも「巧さ」の範囲内というか――失点のなさと加点の多さで突出している感じ、こちらの評価の姿勢も「採点」の域を出ないものでした。もちろん、それなりに筋の通ったフェミニズム観をもっていないとここまでの巧さを貫くことはできないだろうし、それはたぶん脚本家個人にのみ帰せされる功績ではなく、ある種の集合知の賜物だったのだろうと想像するものの、しかし一定の要領の良さがあればこのくらい作れてしまうかも、という留保はぬぐえなかったわけです。

それが少しずつ変わってきたのは、本作の戦争の描き方にふれたあたりからでした。平和から戦争へと劇的に物語のフェイズが変わるのではなく、少しずつ忍び寄って日常を組み替えていくものとして描かれる、それが一貫していて、そこに私は初めて作劇の「信念」のようなもの(容量のよさには還元できない)を感じ取りました。
最初の兆候は新聞などを通じて間接的に示され、しかも父・直言が娘関連の記事をスクラップしているときに戦争関連の記事がちらっと映るくらいで関心の中心にはありません。風景や身の回りの言語の変化も、まずは本筋と直接かかわりのないものとして映されます。これは実際の寅子(たち)の肌感覚だったのでしょう。戦争の影が控えめで、かつその忍び寄り方がきわめて緩慢なのは、たぶん現に寅子にとってそういうものだったから。ここでも彼女の階級的ポジショナリティが強く印象づけられます。女性弁護士の活躍も総動員体制の一環として利用されているとする、新聞記者のシニカルな見方にも、寅子たちがそれほどピンときている感じはない。それがとてもリアルであるし、この鈍感さがのちにもたらすであろうツケの大きさを予感させて非常に重くのしかかります。ストーリーのうえで今後どのくらい大々的に展開されるかはわからないものの、こうした描写は上の三つの論点に続く第四のテーマ――すなわち④「銃後」の女たちをめぐる問題を俎上にあげるポテンシャルを含んでいます。ここが突き詰められるならば、本作はたんにフェミニズム的なテーマをもつ作品というより、まさに――現実の、それ自体として固有の歴史をもった運動・思想としての――「フェミニズム」テーマにしている、というべきなのかもしれません。それは、実はかなり稀有なことではないでしょうか。

4.寅子のセクシュアリティ

最後に、私が見ていて最も純粋に「いいな」と思った――採点的な視点を離れることができた――ポイントについて書いておこうと思います。

寅子と優三さんはついに婚姻関係を結びましたが、その過程がとことんドライで、ある種の「吊り橋効果」的な作劇場の囲い込み――つまり寅子が弱りきっているときに優三さんのやさしさにふれて「愛」に目覚めてしまう的な――が一切なかったことに、まず好感をもちました。単純に私の嗜好として好みの関係性だというのもあるのですが、重要だと思うのは、この結婚の過程や、花岡から寄せられた好意への反応を通じてほのめかされる、寅子のセクシュアリティの描き方です。
おそらく寅子のなかには「恋愛的・性的惹かれ」に相当する感覚がきわめて希薄なのだろうと推測できますが、ここで私が見逃したくないと思ったポイントは、だからといって「恋愛的・性的惹かれ」(と社会的に位置づけられる「特別な」感情)を他者から向けられることそのものには、決して喜びを感じないわけではないらしい、ということです(花岡の言葉を反芻してずいぶんとウキウキしていました)。
たぶんそれは、ステレオタイプなアセクシュアル/アロマンティック表象によって見落とされてしまう、ある種のリアリティでもあるのではないかと想像します。もちろん生まれる時代が違っていれば、つまりいまであれば寅子は自分のそうしたありように、何か適切な言葉やふさわしい場所を与えられたかもしれません。その意味で、花岡や優三さんに対する寅子のそうした感情が「ふつう」の恋愛や結婚の文脈に(周囲や寅子本人によってさえ)回収され、現に婚姻関係へと帰着せざるをえなかった彼女の境遇は、時代の制約を強く受けたものだといわざるをえないと思います。ただ、だからこそ繊細に、特定のラベルにきれいに整合的に収まることのない彼女固有のセクシュアリティ(あらゆる現実のセクシュアリティは、そういうものでしょう)を描き出すことができた、ともいえるように思います。恋愛や結婚に対する寅子の態度(の描き方)は、ある面から見れば政治的に不徹底だけれども、翻って、一見「ふつう」の枠内にあるようにみえるものに多様なニュアンスを読み込む可能性を開いてくれている、私自身はそういうポジティブな意味合いをここに託したいと思いました。

こんな感じで、第八週以降も楽しみに見ていきたいと思います。






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