でもやるんだよ人文学

根本敬の『因果鉄道の夜』に出てくるという「でもやるんだよ」という言葉が、戦後日本のサブカル史において最も広く深く共有された警句の一つであることは間違いないだろう。と言いつつ「という」などと怪しげな伝聞形を用いたのは、恥ずかしながら原典にに直接ふれたことがないからだ。その本の初版が出たころにはまだ辛うじて人語を解するくらいの年齢だったような世代の私が出会ったのは、無数にある引用のなかでも孫引き・曾孫引きどころではない、長い時間をかけて数々のテクストの間を経めぐった末の「でもやるんだよ」であった。しかしこの言葉はかくもシンプルでありながら、とりわけそれに出会いうる類のひとなら誰もが殆ど直感的にその精神性の肝をわかってしまう、そういう力をもっていたので、言い訳めいているかもしれないけれど、元々の味が薄まるよりもむしろいっそう煮詰められた状態で私はそれに出会うことができたと思う。

元々、これは捨て犬の保護施設で働くおじさんが餌をやったあとのタライを洗剤つけてごしごし洗いながら言ったという台詞で、この「でも」は「無駄な事なんだよ」にかかる逆接である。しかしそこに「なぜなら」が継がれることは、ない。それでも「なぜ」やるのかは不明のままだ。無駄さ加減に救いは訪れないのである。

2015年の文科大臣による「通知」を発端に、現在に至るまでさまざまなところで真摯だったり不埒だったりする論争が繰り返されてきた「人文学は(何の)役に立つのか」問題。これについては私自身、人文学と呼ばれる世界に多かれ少なかれかかわってきた人間として、やはり真摯にも不埒にも折にふれ考えてきた。正直に言うと、結論は全く出ていない。もちろん大切だと思っている(部分がある)からかかわっているわけで、私個人の生存にとってそれなりに役に立っていることは明らかだし、それについてはあるていど整理して語ることもできる。が、それが普遍的にどんな人間にとっても大事なことだという気にはとてもなれない。そもそも人が「人文学は(何の)役に立つのか」と問うとき、期待されているのは私の個人的な役立ちではないだろうから、それをもって答えとするわけにはいかないと思う。

とはいえ、問われたら答えなければいけないのかというと、モヤモヤは残るのである。この点についてはこんな記事があって、そこでは「説明責任」が明確に主張されている。そしてそれに伴い、こうした問いを拒否しようとする人文学側のひとびとの振る舞いがいくつかのパターンにわけて批判されている。たしかに「なるほど」と思う。この問いには特殊な点があって、ふつう「(何の)役に立つのか?」に対する反論はそれが反論である限り「役に立つ」ことを前提に、その理由付けの説得性を競うものになるはずだ。ところが「役に立たない」という前提に立つ論や、そもそも「役に立つ/立たない」という二分法を受け容れない論さえも、人文学的な正解ではありうるのだった。ただ人文学的な正解は殆どの場合反人文学的には不正解なので、そもそも対話が成り立っていないと感じることも多い。不毛である。それは認めねばならない。先の記事では、だからちゃんと正面から「役に立つ」と答えるべきだと言われる。そして説明責任が生じる理由は主に「公金」が使われているからだとされている。犬の保護施設で働くおじさんがタライをごしごし洗うという、益もないかわりに自分自身の体力と時間を消耗するほか何の損失も害も世界にもたらさない行為と違って、みんなの金の使い道は「無駄」であってはいけないのだ。

まあそれもそうかもしれないとも思う。しかし同時になぜそうした問いに応答し説明する責任が私たち、つまり人文学にかかわるひとびと自身に課されるのだろう、という不満もぬぐいがたい。そもそも現場に立つ研究者たちは科研費だの学振だのの書類で絶えず自らの研究がいかに有意義な金の使い道であるかを現に説明させられているのだし、また公金が直接に問題になる領域ではないけれど例えば人文書の編集者だって一冊の本を作るにはそれがある程度の金になることを経営者に納得させる必要があるだろう。私たちはもうすでに嫌になるほど自らを説明=プレゼンしている。そのうえ世間様への説明なんぞ、金を出すと決めた側が責任を取ってほしいものだというのが正直な気持ちである。もちろん、そうやって説明しようとしてきて遂にしきれなくなった一つの結果が先の「通知」に始まる人文学不要論とか廃止論といわれる現在の傾向なのだとも考えられる。しかし、だからといって自らの生業を成り立たせるのに必要かつ十分な援助が急に打ち切られるとなったら当事者は抵抗するほかない。抵抗であって、間違ってもプレゼンではない。それはもはや生存とか諸々の権利の問題なのだから、ことそこに至って人文学そのものの意義など無関係とは言わないまでも二の次であろう。

もっとも、他方でブルシットジョブという言葉もあるようにどう見ても無意味で不必要であるにもかかわらず、その有用性を説明する責任はおろか自らその大切さを誇る余地すら従事者の手から予め簒奪されてしまっているような仕事が、おそらく公金がかかわる領域にも腐るほどあるはずだ。先に縷々述べ立てたような人文学関係者の不満とどちらが深刻か、などとそれこそ不毛な比較をすることは控えておこう。しかし両者とも「でもやるんだよ」と言うことを、そこにいかなる「なぜなら」も継がないことを許されていない点は共通しているのではないだろうか。言うまでもないことだが、例のおじさんのやっていることが仮に施設の長の妙な宗教的信念によって強いられた便器の手洗いなどであったとしたら「でもやるんだよ」は絶望の叫びでこそあれ、何の救いにもなりえない。それが人の心を打つためには、思いがけないほど多くの困難な条件が必要である。説明責任の追及にあえぐ人文学関係者もブルシットジョブにいそしむ公務員も、その条件を奪われている。

私は、人文学もまた「でもやるんだよ」と言える(そうとしか言えない)ものでなければならないと感じている。それは権利というより殆ど倫理的義務であろうとさえ、考えている。だからそうすることが許されていない世界は間違っていると直観的に信じている。しかし現に間違ってしまっている世界において、私のこうした訴えも反人文学的には無意味な不正解でしかないことも知ってはいる。話はすれちがうしかない。でもやるんだよ。






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