私たちの「分断の感覚」を深める要因のうち、最も不毛なものの一つについて

インターネットとりわけTwitterのようなSNSを閲覧しているなかで軽蔑や怒りや絶望といったネガティヴな感情が喚起され、反復されて日常にべったりと沁みつき、いつしかこの世界そのものについて深い「分断の感覚」を生きるようになってしまう。そうした感情をもたらす要因の第一はもちろん赦しがたく下劣な差別的言辞や誹謗中傷の数々であるわけだが、必ずしもそういうものではない、しかしどうにも癪に障るといった類のものも種々存在しているように思われる。

そのうち最も不毛なものの一つが「バカによる賢しらな言説」であろう――と言って直ちに補足しておきたいのだが、この時点では私は「バカ」や「賢しら」の具体的な内実を一切画定していない。つまり、後述するように私自身はたしかにある特定の言説を「バカによる賢しらな」ものとみなしてネガティヴな感情を持つ傾向にあるが、逆に別の誰かが私のこの文章こそ「バカによる賢しらな言説」の典型例だとみなしてネガティヴな感情を持ちうる可能性も決して否定しない。ただしそういう人も「バカによる賢しらな言説がネガティヴな感情を喚起する」という私の主張自体は、少なくともそれだけは(現にそうなのだから)身をもって肯定せざるをえないだろう。そういうかなり広い一般性を、この表現は想定している。

とはいえ現実にはいろんな種類の、具体的な「バカによる賢しらな言説」群が存在している。そしてネットを通じて「分断の感覚」を深めている多くの人は、たぶんそのなかの一つないし複数の言説パターンを「バカによる賢しらな」ものと認識し、軽蔑したり怒ったり絶望したりしている、あるいはそうすることが習慣になっているのではないだろうか。

例えば古典的ながらも未だネット上ではバリバリ現役の、不毛な、かつ多くの人にとってはどうでもよいという意味で比較的無害な分断として「分析哲学」派と「現代思想(ポストモダン)」派の対立を考えてみよう。前者が後者を揶揄する際(この種の言説は各所で日々生産されている)、個々に大義名分はあるにせよ、基本的にはかれらの思う「バカによる賢しらな言説」への苛立ちがベースにあると見て間違いないと私は思っている。この場合「賢しら」は「衒学的で非論理的」、「バカ」は「論理的に思考し明晰に叙述する能力・習慣・意志を欠く者」くらいの意味で考えればよいだろうか。反対に現代思想やポストモダン的なるものへのシンパシーに基づいて、分析哲学的なふるまいを「バカによる賢しらな」ものと見なす者も少なからずいるはずである。こちらは例えば「肝心なところで常識や直観に頼りながらあくまで論理を強調する」点に「賢しら」さを感じ「常識や直観に対するラディカルな批判的洞察を欠く者」を「バカ」だと思っているかもしれない。

ただし実際に誰かがある言説を「バカによる賢しらな」ものと認識する際には、そう認識する者のなかで「バカ」と「賢しら」が初めから個別に定義されているわけではおそらくなく、その言説がまず「賢しら」だと感じられた時点で、その主体が「バカ」であることがその人のなかで必然的に導かれると考えたほうがよさそうである。なぜなら「賢しら」とは「賢いふりをしている」ということで、その言説の主が本当は賢くないということをすでに含意してしまっているからだ。

そこで「賢しら」とは「真の賢さ」と「偽りの賢さ」の区別を前提したうえで、後者――体裁上はいかにも「賢さ」を演出していながら肝心の内実を伴っていないと感じられるふるまい――を指し示そうとする概念である、といったん言い換えてみる。しかし冒頭ですでに述べたように、ここではなるべく抽象的・一般的・相対主義的に話を進めたいと思っているので「賢さ」という語自体も(そこには特定の支配的な価値基準が多分にしみこんでいるため)極力用いずに済ませたい。という方針のもと、私なりに可能な限り抽象性と一般性と相対性を備えた仕方で「賢しら」を定義づけるならそれは「自分にとって価値が低い(あるいは無い)方法と目的のもとになされた言語運用をネガティヴに形容する語」である、と、こうなる。

例えば言語は論理的かつ明晰に用いるべきであるとする人のなかには、翻って非論理的で曖昧に感じられる言語運用の所産は無価値であると考える人もいるだろう。しかしそれだけでその言説が「賢しら」なものになるわけではもちろんない。単純に言語運用の拙さゆえに論理性と明晰さを備えるにいたっていないだけの場合、そもそも賢いふりなどするつもりがないか、しようとしても「ふり」にすらなっていないわけなので「賢しら」とは言えない気がする。では加えてどのような条件が必要かというと、先ほどの定義で「目的」と書いたのはまさにこの点にかかわっていて、つまり自分の評価軸に照らして方法的に無価値な=失敗しているはずの言説が、にもかかわらず何らかの、自分の評価軸に照らして無価値な目的のもとでは成功しているらしい――という事態への苛立ちの感覚こそが「賢しら」の正体なのではないだろうか。単に非論理的で曖昧でそれゆえ無価値に思われる言説が、自分には理解できない別の基準に従って肯定的に評価され、また言説の主自身もそれを善しとしている、自分にはバカが賢いふりをしているようにしか見えないのに……というわけだ。

ちなみに私自身が「バカによる賢しらな言説」とみなしてネガティヴな感情を持ちがちなのは「リアリスト」を自称ないしは心中自認しているタイプの政治的・経済的右派によるそれである。これは丸山眞男がすでに1950年代の時点でいみじくも指摘していた日本のリアリストの特徴にも通じているが、彼らは現実主義的というより単に現状適応的で、合理的なのではなく合理化(精神分析的な意味での、つまり「言い訳」)に長けているだけだと私は考えている。彼らは自分が敵視している政治的立場からなされた批判的言説に対してしばしば「いやいや」とたしなめのニュアンスを含んだ否定を投げ返し、批判の必要性そのものを無効化しようとする。現状に適応するための合理化の産物である。改憲のような一見革新的なアジェンダも、現実を変えるというよりはそれに適応するための方途として希求されているにすぎない。私の評価軸に照らせばたいして現実主義的でも合理的でもない、単なる自己暗示のためのあがきが、にもかかわらず一定の人びとの喝采を集めてやまず、また言説の主自身もそれを善しとしている、私にはバカが賢いふりをしているようにしか見えないのに……こうして私は軽蔑と怒りと絶望に呑まれ、分断の感覚を深めていく。

ところですでにお気づきのように「自分の評価軸に照らして方法的に無価値な=失敗しているはずの言説が、それでいて何らかの、自分の評価軸に照らして無価値な目的のもとでは成功している」という事態がネガティヴな感情を喚起するというのは、むやみにまどろっこしい言い方をしているが、とどのつまりは自分とは相容れない思考や感覚や信条をもつ人間が人並みに言語を用いていること自体への苛立ちに帰着するのではないか。そして言うまでもなく、これはきわめて暴力的な感情である。

発信者側としてメディアにアクセスする権利がごく一部の少数に占有されていた時代には、私たちのほとんどは「賢しらな言説」をそもそもなしうる立場になかった。逆に言えばそれが偽る「賢さ」は肩書き等々によってある程度は客観的に保障されていて、ゆえにそれが偽のものだと――つまり「賢しら」だと――喝破することは権威への抵抗という建前を、まだしも持てていたはずである。しかし発信のための門戸がかつてとは比べ物にならないくらいに広く開放され、かつその内部ではあたかも誰もが対等に意見を交わしうるかのような状況においては「賢さ」が客観的な指標を失い、その閾値が著しく引き下げられることになる。立場を異にする人間たちが自分と同じ言語を操っているというただそれだけで、不当に賢さを偽っているように見えてくる。これは悲劇的なまでにシンプルで、根源的な分断の感覚だろう。

念のために言い添えておくが、私がここで強いて抽象的で一般的で相対主義的な書き方をまがりなりにも(ということは、つまりその不可能性を自ら同時に示しつつ)試みてみせたのは、何も「意見の違いを認め合い、リスペクトをもちましょう」などと言いたいためではない。私にとって上に述べたリアリストたちの言説は依然として無価値なままであり、ネガティヴな感情を喚起し続けてやまないだろうし、それで構わないと思っている。ただ、とても大事なことについて考え、問い、語っているはずなのにその営みがどういうわけか酷く不毛に感じられてしまうとき、その不毛さの在り処を探り当てる一助に、こうした相対化がなりうるかもしれない。そしてそのようにして析出した不毛さを丁寧にはぎとることが本当に大事なことを大事なままに守る手立てなのかもしれないと、深い「分断の感覚」の底にいながら自戒も込めてこのような文章を綴ってみたのだった。




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