終劇しました

この文章は『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』のいわゆる「ネタバレ感想」にあたるものだと思うので、ご覧になってないかたはご注意を。

後追い世代である。初めて見たのは新劇の『序』で、しかもDVD視聴であった。ちょうど『破』が公開する年、私は大学生になったばかりで、先達であった高校時代からの友人が「とりあえず『序』を見ておけばいいから」というので一緒に鑑賞、のち『破』を劇場で見た。私の初日は友人にとってたしかすでに七回目くらいだったはずだ。それからその友人の家に泊まり込んでテレビ版~旧劇までを一気に見たし、もちろん数年後の『Q』も彼と一緒に見た。そしてようやくこのときがきたのだ。

それで先日、10年ぶりにテレビ版と旧劇を一気に見直してみた。10年前の私はシンジやアスカの目線で、他者への恐怖と自己嫌悪のループを現実と虚構の二項対立に重ね合わせた青臭い思弁が紡ぐイマジネーションに思いっきり泥んでいて心地よかった。ところが10年後、こんな私もすっかり大人目線になっていた。同じ大人として、子供たちを取り巻く大人たちの身勝手と理不尽をただ嘆いた。自分自身がシンジやアスカだったときには見えなかったレイの良さにも気づいた。自分が自分であることから逃げたいと思えるのは少なくとも自分が自分であることだけは疑いようもないからであって、それすらもままならないレイの、だからこその強さにハッとさせられたのだ。旧劇のラストも、前よりはるかにすっと納得できた。

……そろそろスクロールが必要な安全エリアに来たと思うので、前置きはこのくらいにして『シンエヴァ』の感想に移ります。

シンプルに見事だった。セリフが説明的すぎるとか(ゲンドウの心の声があまりにもダダ洩れなのは「目で演技できない」という物理的な理由もあると思うけど)新しい日常パートがベタすぎるとか、シンジ射殺未遂前後のシーンは妙にダレていてもう少し演出を練る余地はあったんじゃないかとか、その他こまごました思想についても思うことはもちろんいろいろあるが、そんなのは些末なこと。少なくとも私にとって重要なのは本作によってようやく作り手と同じ「現実」を共有する「観客」という役割を全うすることができたという、この一点に尽きる。

かつて「子供」だった私が10年後ようやく「大人」になった、というのは裏返せばかつて「私」だったシンジやアスカがようやく「子供」になったということになるわけだが、この『シンエヴァ』はそのシンジやアスカ、あるいはレイやミサトさんやリツコさんや加持さんやゲンドウやトウジやケンスケやカヲルくんやマリ、そしてすべてのエヴァンゲリオンたちをスクリーンの向こうの「虚構」に生きる「キャラクター」としての生へと送り還す、ほとんど奉納に近い儀式だったと思う。彼らは「私」でも、私の「子供」でもない。というか決してそうではありえないのだ、ということ。そしてそれでいいのだということ。これらは「観客」としての私たちに本作が求める態度であると同時に、おそらく庵野さんたちもまたようやく彼らを「私」でも「子供」でもない虚構のキャラクターという全き他者として迎え入れる作業を終えることができたのではないだろうか――と思う。

終盤においてミサトさんが船体をジェット推進に切り替えた瞬間には、私はもう物語内の誰よりもこの映画の作り手たち自身がいかに走り抜けゴールするのかを見守り、応援していた。なんかそういうモードになっていた。新劇の世界とそれ以前の世界とをつなぐ「マイナス宇宙」というギミックにしても、イマジナリー、虚数、ディラックの海……みたいな内的考察には一切神経を向けることなくただこの絶妙に野暮ったいSF的ボキャブラリーの選択に熱いフェティシズムを感じ、そこにこそ感激をしていた。

新劇場版というプロジェクトによって『エヴァ』の「世界を書き換える」作り手たちの営みをそのまま作品内部に入れ子にしてしまうことで解決を図るやり方には批判もあるだろう。というか普通に考えればそれ自体は割と陳腐でずるい発想かもしれない。ただ、そういうやり方でしか救えないのが『エヴァンゲリオン』という作品であり、逆にいうとそのやり方が救いとなりうるのは『エヴァンゲリオン』だけなのだろう(後にも先にも『エヴァ』以外にありえない)と思うと、この一回性こそ紛れもなく――本作がなんとも泥臭い仕方で肯定しようともがいている――「現実」だと感じた

この一回性としての現実、つまりテレビシリーズが始まって『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』へと辿り着くまでの同じ一つの「時間」を作り手と受け手が共有してきたということそれ自体を肯定することがすなわち『エヴァンゲリオン』という作品だった。終劇のクレジットはその意味での『エヴァンゲリオン』にはなむけられていた。冒頭にも書いたように私は後追い世代なのだが、後追い世代であればこそ、この圧倒的な「現実」の重みをただ静かな敬意をもって受け止めるしかなかったのだ。

おそらくテレビシリーズからのリアルタイム世代はこの終劇を、私など及びもつかないほどの感慨をもって迎えるか、あるいは私のように軽々と納得することなどできない屈託をもって送るかしているのだと思う。一般論としてリアルタイムが後追いより偉いとはいえないにせよ、こと『エヴァ』に限っては不可逆的で一回的なこの「現実」の介入が捨象しえないものである(ことが今作をもって明らかになった)以上、私はそうしたリアルタイム世代のあらゆる感情を全て肯定したい。

私はそんなリアルタイム世代でも、また本作のために前三作を初めて視聴したような若い世代でもなく、ただかろうじて初見から完結までにいたる時間を「大人になる」ことに費やすことができた(たぶんギリギリ最後の)世代である。10年は長い。ともにシリーズを追ってきたあの友人も、いなくなってしまった。最後まで一緒に見たかったし、今だって話をしたくてたまらない。人生にはいろいろなことがある。ここにしたためたのは1990年に生まれた一人の人間の、不可逆的で一回的な感想であった。

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