成長から解像度へ――押見修造『惡の華』と古宮海『可愛そうにね、元気くん』

最近、単行本が完結した古宮海『可愛そうにね、元気くん』(全八巻、集英社、二〇一九―二〇二一)という漫画がある。宝島社の『このマンガがすごい!』に取り上げられるなどそれなりに話題にもなり、私もかなりいい作品だったと思う。

ところでこれを読んだとき、あるていど漫画を知っているひとならおそらく瞬時に連想するのが押見修造の『惡の華』(全一一巻、講談社、二〇一〇―二〇一四)だろう。実際、両者の基本的な構造はかなり相似している。もちろん具体的なギミックなどはかなり異なる(し、むしろその本質的な違いについてここでは書きたいと思っているのだ)が、まずはそれぞれのおおまかな設定を、その類似を念頭において確認しておこう。

押見修造『惡の華』の主人公はボードレールを愛する文学好きの中学生男子で、容姿端麗・品行方正なクラスのアイドル佐伯さんに片想いをしているのだが、あるとき衝動に任せて彼は佐伯さんの体操服を盗んでしまい、しかもそれを仲村さん――教師にも平然と悪態を吐く凶暴さでクラスでも孤立している――という同級生女子に見られてしまっていた。そしてそのことをネタに仲村さんは主人公にある契約を結ばせる。それは放課後を毎日二人で過ごすこと、そうして彼女に彼の内面の「変態」を全て曝け出させるというものだった。で、その間いろいろあって彼は佐伯さんと付き合うことになるのだが、デート時の下着に盗んだ体操服を着ていくことを強いるなど仲村さんの要求も同時に加熱。その結果、体操服の件をついに佐伯さん本人に知られるに至る。にもかかわらずそれでも主人公を拒絶しない佐伯さんの愛はむしろ彼を追い詰め、やがて仲村さんとの破滅的な共犯関係にのめり込んでいく

古宮海『可愛そうにね』の主人公・元気くんは、密かに想いを寄せる八千緑さん――異次元の鈍くささを遠因としてクラスでは孤立している――をモデルに凌辱漫画を(もちろんこれも密かに)描いている高校生同人作家なのだが、あるときそのことを容姿端麗・品行方正なクラスのアイドル・鷺沢さんに知られてしまう。ところがこの鷺沢さんというのが優等生と見せかけて実はかなり筋金入りのサディストであり、漫画の件をネタに元気くんをペットとして飼い始めるのだった。で、元気くんは彼女の差し金で八千緑さんと付き合うことになるのだが、問題は凌辱漫画の件を知られたうえで恋愛関係になったこと――要するに八千緑さんはマゾヒストだったのである(と、実はそう単純にも言い切れないのだがここでは強いて図式的にまとめます)。これは一見ハッピーなカップリングにも見えるかもしれない。しかし悲しいかな元気くんは凌辱漫画を描いている割に自分が好きな人に暴力を振るいたい人ではなかった。彼女の求めるとおりサディストを演じねばならないことに苦しみ続けた彼は、次第に自分を徹底的に痛めつける鷺沢さんの暴力に圧倒的な快感を覚えてしまうおのれのありように気づいていく

類似は明らかだろう。第一に両作とも内面に(とりわけ性的な)葛藤を抱える一見平凡な少年と、集団から異物扱いされた女性、そして反対にその中心に位置を占める女性の三角関係である点。そして彼が(社会的には)間違った道を選んでしまうことによって物語が駆動されていく点。また、そのなかで主人公がセクシュアリティを含む自らの実存や他者との関係性という問題に向き合わされていく過程にドラマがあるのも、共通している。もちろん差異も明白で、例えば『惡の華』では見るからにヤバい奴である仲村がメフィストフェレス役となり、根っからの優等生・佐伯が主人公の「ミューズ」であるのに対して、後発の『可愛そうにね』は仮面優等生にメフィストフェレスを演じさせ、むしろ「異物」的な存在に主人公の想いを向かせるというひと捻りを加えている。

だがそうした小手先の差異は、実はあまり重要ではない。

押見修造は『惡の華』各巻すべてのカバー袖に「この漫画を、今、思春期に苛まれているすべての少年少女、かつて思春期に苛まれたすべてのかつての少年少女に捧げます」という一文を記している。つまり本作は明確に「思春期」の物語として描かれていて、かつそれは思春期の「その後」へのまなざしを内包しているということだ。じじつ上記の三角関係は作品全体の折り返し地点となる第六巻をもって破局を迎え、以後は主人公の高校時代をある種の回復の過程として描くことに費やされる。そして実質的な最終話である第五五話(続く本当の「最終話」は物語の発端を仲村さんの視点から描き直している)では、ここまで彼が経てきたすべての時間のたしかな延長線上にあるものとして主人公の大学生活が描かれている。

これをごく乱暴にまとめてしまえば、結局のところ『惡の華』とは一人の少年の成長の物語である、ということになる。自らのセクシュアリティに直面し、動揺と錯乱を経つつもやがてそれらを(打ち消すのではなくむしろ)受容し、それをもって他者とともに生きていく。要は大人になる

それに対し『可愛そうにね』の元気くんは最初から大人に見える。彼は発端においてすでに自分のセクシュアリティと折り合いをつけた状態にいたのではなかったか。もちろん彼の内面に変化がないわけではない。虚構のなかで自足していたはずのそれを鷺沢さんという「悪魔」の手で現実のもとに引きずり出され、それによって苦しみ、知悉していると思っていた自分のセクシュアリティの新たな一面と向き合わされることになる。しかしそれは『惡の華』が描いたような意味での「成長」とは何かが明らかに違うのだ。主人公だけではない。八千緑さんだってそうだろう。文化祭の準備を通じてクラスに受け入れられ、元気くんの破滅(彼女の弟によって凌辱漫画のことを学校でばらされてしまう)によって決定的に――『惡の華』の仲村さんがいうところの――「ふつうにんげん」として生きる道を見出した彼女は、しかし何かを乗り越えてそうなったわけではない。ただそれがより「楽しい」生であることに気づいただけで、何も変わっていない――「だって私元からおかしいから」。そして「きっと/生きてておかしくならない人なんて居ない」のだから。本作の人間観はこの八千緑さんのひと言に要約されている。鷺沢さんがサディズムに目覚めたことで男性への恐怖心を克服したのは中学生のころのことだが、その変化は成長と呼ぶにはあまりにも劇的で、ある種の「コペルニクス的転回」というほうがふさわしい。かれらはみな各々ある時点において自分の世界をほぼ完全に作り上げてしまっていて、その見方が変わったり、見えていなかった部分が見えるようになる。そこにはどこまでも視線の操作だけがあるというわけだ。仮に「成長」というものを、還元不可能な時間のなかで過去を現在に絶えず包摂しながら未来へ向かっていくこと(そういうものとしての人生観)だと定義するなら『可愛そうにね』の物語にはそのような「時間」が内在していない。いわばその本質からして無時間的なのだ。全く同じ内容が高校ではなくどこかの企業を舞台に展開されたとしても何ら不自然に思われないのはそのためである。ここに「思春期」であることを作劇の絶対条件となす『惡の華』との決定的な差異がある。

この無時間的な(=反「成長」的な)ドラマトゥルギーにおいては、世界や実存そのものが具体的に組み換わることはない。ただ、すでにあるそれの見通しがより良くなる、あるいは良くなることで見え方が変わる――ひと言でいえば解像度が上がるのである。この「解像度」とは実際、ここ数年であらゆる場面において急激に使用頻度が高まっている語彙の一つのように思われるが、これら両作品のあいだには成長の物語から解像度の物語へ、という明確なパラダイムシフトを見出すことができるだろう。

この差異はそれぞれの「おまけ漫画」にも表れていて、まず『惡の華』(ただし第一巻から第五巻まで)の末尾には作者である押見自身の「思春期」のエピソードが、本編のテーマを敷衍するように語られている。つまり本作のベースには彼が現実においてただ一度きり経験したところの「思春期」があり、現に物語自体も完全に単線的で、パラレルワールドの余地がない。結末における主人公の「成長」は、それだけがただ一つの結末でなければならない――しかも「最終話」では同じ物語が再び視点を変えて語られはじめるのだから、その円環が別ルートの可能性を完全に封じてしまうことになる。

それに対し『可愛そうにね』のおまけ漫画は各巻ごとに「入れ替わり」「男女逆転」「アイドル編」などなど、さながら公式の二次創作といった様相を呈している。最終巻末では本編とは異なる「あったかもしれない世界線」での「みんなの酒癖」が描かれており、続く「あとがき」にも「この結末以外にも無限に世界線がある」ことが明言されている。対照的にもこちらではパラレルワールドの存在がむしろ前提されてしまっているわけだ。そしておそらく本作における「成長」の不在は、まさしくこうした作品世界そのものの構造に規定されたものなのだろう。

念のために言っておくと、別に私は「成長」の描かれえない世界を否定したいわけでは全くないし、この「パラダイムシフト」に社会批評的な含意をもたせるつもりも特にはない。基本的に成長譚のようなものは、どちらかというと嫌いである(『惡の華』は名作だと思うけど)。そういえば『可愛そうにね』と同じくパラレルワールドの可能性を作品の根幹に組み込み、これまた同様に半ば公式の二次創作も存在しているあの「エヴァンゲリオン」においてもまた――少なくとも最初のテレビ版と旧劇場版にかんしては――シンジくんの変化はあくまでも視線の変化でしかなく、どこにも「成長」の余地はなかったような気がする。もっともその間も当時から現在に至るまで、私たち観客や作り手のほうは当然一度きりの現実の時間を生き続けねばならなかったわけだが、今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』において提示された「大人になる」という主題は、ならば成長物語への唐突な回帰なのだろうか。あるいはそれもまた解像度のトリックにすぎないのだろうか。この問いは開いたままにしておきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?