新海誠『すずめの戸締まり』寸感――あるいは「自己犠牲の物語」を拒否しながら「セカイとキミの二者択一」をかわす方法

先ほど観てきたので、寸感をいささか未整理のまま。

地震、みみず、とくればこれはもうどうしたって村上春樹「かえるくん、東京を救う」を(知っていれば)思い起こさざるをえないのだし、さらには同作が引喩的に登場するアニメ『輪るピングドラム』にも(見ていれば)連想は飛ぶかもしれない。ものすごく雑駁に括ってしまえばこれらは「自己犠牲の物語」といえるだろうが、本作がそのオマージュというよりむしろアンチテーゼを試みようとしていることは明らかである。

ところが自己犠牲の物語を拒む者の眼前にすぐさま立ち現れるもう一つの難問というのがあって、それが「セカイとキミの二者択一」である。二者択一といっても(自己犠牲の物語を拒む限り)答えは予め定められていて、すなわち選ばれるのはセカイではなくキミの救済でなければならない。その最も身近な例の一つが『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』の碇シンジ君で、彼が選択した「綾波レイを助ける」=「彼女の「自己犠牲の物語」の拒否」は結果としてセカイの荒廃=サードインパクトをもたらした(もっとも彼は意図して世界を捨てたのではないけれども)。しかしこの途行きは、やはり破綻するのである。続く『Q』はシンジの選択に明確な「罰」を与えた。両作のあいだに横たわる東日本大震災の経験がここどれほど影響しているのかは知らない。ただ「自己犠牲の物語」に対してキミの救済=セカイの破滅を対置することの限界がはっきり刻まれたことはたしかだった。

自己犠牲を拒否しながら、いかにして「セカイとキミの二者択一」をも同時に躱すことができるか――新海誠監督の前作『天気の子』もまた、この問いに対してある(本作とは別の)答えを示す試みだったと思う。少女が選びかけた「自己犠牲の物語」を「天気なんて狂ったままでいい」という言葉で覆す、ところまでは一見『破』の踏んだ轍と重なっているようにも見えるけれども、その狂った天気がもたらすのはセカイの破滅どころかせいぜい東京という一都市の水没にすぎないし、キミとボク以外の人間にとっては自己犠牲もその否定も完全に不可視のままで何の不都合もない。少年の「世界は最初から狂っていたわけじゃない」という言葉は、ことさらの否定辞によってむしろ事実は「最初から狂っていた」のだと強く印象づけてしまう。ともに生きていくことを決めた二人が、最初から狂っていたにすぎない世界を「ボクたちが変えた」つもりになること、ある種のごっこ遊びめいた空想の共有によって「大丈夫」にサバイヴしていく――同作のラストはこのような、ある意味できわめて現実的な生存戦略の提示と解釈できる。いわば世界は気の持ちようでいくらでも「セカイ」になりうる、のだ。

この解決策は、表面の印象は全く違うけれども『秒速5センチメートル』と構造的には同型である。あの作品には「オタク」的なファンタジーに現実を突きつける要素があるけれども、同じく「オタクに現実を突きつける」にしても例えば庵野秀明は(旧劇においても、新劇においても結局は)書を捨てよ街に出よう型の啓蒙に落ち着くのに対し『秒速』のほうは書(ファンタジー)もまた初めから街(現実)に埋め込まれていることを前提に、その前提をシニカルに提示する手法を取っていた。これと同じ前提を一種のコペルニクス的転回をもって可能な限りポジティヴに提示したものが『天気の子』である。要は現実にうまくファンタジーを埋め込んで生きていこう、と。

しかしこれらはいずれも搦め手というか、いささか姑息であることは否めないかもしれない。虚構と現実の関係性をいくら操作したところで、自己犠牲であれセカイとキミの二者択一であれ、既存の物語の構造そのものは揺るがないからだ。そこで本作『すずめの戸締まり』において新海監督はついに虚構=物語の次元に留まりながら、その内部でこれら二つの物語のあいだのジレンマを乗り越えることを試みたのだと(その成否はともかく)いえるだろう。自己犠牲の物語は否定され、かつセカイとキミは同時に肯定される。しかしこの肯定はキミとボクの密かなファンタジーには留まらず、少なからず社会を巻き込んでいる。開かれている。だから「キミ」とともに肯定されたのは「セカイ」というより「世界」である。

ひとまずは骨組みだけを抜き出してまとめておくなら、おおよそこういうことになるだろう。この第三の道が、しかし果たして本当に成功しているのかについては、もちろんさまざまな具体を通じてその内実をさらに分析・検証される必要がある。その作業はまた別の機会に譲りたいのだが、ただ一つだけ――自己犠牲を否定したからと言って物語世界からいかなる「犠牲」も失われたわけではなく、その「役割」はに仮託されるというポイントのみ指摘しておこう。人間の愛が生死を決するペット動物のヴァルネラビリティを明確に示しながらも、同時に神のような存在である猫。なぜ猫なのか。この問いは本作の物語としての成否を上記のような枠組みのもと考えていくための、一つの鍵となりうるのではないか……未だ無根拠な直感に過ぎないけれども、ひとまずはそんなふうに思っている。

あとは伊藤沙莉さんが生来の圧倒的存在感に加え、声優としても驚くべき進化を遂げておりあっぱれ瞠目したのと、東京のコンビニで働く外国人店員が英語名の白人女性だったことに(別にとやかく言うつもりはないけど)ついいろいろ考えてしまったことだけ追記しておきます。




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