【エッセイ】夢と現実の記憶
日々の生活から現実感がなくなっている気がして仕方がない。
起きてはいるのだけど夢心地でまどろんでいるような、時計の針がスローモーションになった箱庭でふわふわと浮遊しているような、どこか既視感がありノスタルジックな気分に包まれながら遠い過去の記憶を遡っているような、そんな感覚がある。
反対に夢の中での経験は、明度・彩度が増していて、現実そのものに感じられる。
五感は現実世界と何ら変わることはないし、心の動きに至っては現実世界よりもあるがままで生々しく、夢の中で抱いていた心情を起床後に思い出して追憶することも多い。
現実よりもむしろ夢の中に現実感があるのは、自己を演じる必要がないからかも知れない。
世間や他人に見せる自分も要らないし、自分で自分に言い聞かせる自分も要らない。
夢の中では時間軸がおかしかったりもするけれど、何の違和感もなく展開されていく。
「夢か現か(ゆめかうつつか)」という言葉には「夢のような現実」の意味が含まれていて現実が主体で夢が客体の関係性になるけれど、本当にそうなのか? は疑問を抱くことがある。
もしかしたら、私たちが現実だと思っている日々の生活が “いわゆる夢” のようなものであり、夢の中での脈絡のない経験が “いわゆる現実” のようなものなのかも知れない。
少なくとも過去の記憶は昨晩の夢よりも現実味を欠いているし、およそ半世紀の人生にて “現実なるもの” を直視してみればみるほどに、まさしく儚い夢のようにも思えてくるからだ。
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現実から滲み出る現実味が 時空の紐を伝わり 明晰夢へと染み込んでいく
目覚めている間に脳裏に訪れるのは 経験したことのない 記憶と懐かしさ
眠りに落ちた間に脳裏に訪れるのは 仕舞い込んだはずの 記憶と生々しさ
過去の記憶が幻想であるならば 明晰夢と現実の区別も夢想の類に違いない
夢と現実の記憶は交差し 時空の紐を伝わり 時人を越えて行き来していく
夢も現実も映写機に投影した脚本であり 存在は経験して永遠の眠りにつく
まどろみの中で ”全体なるもの” を感じているとき 真実と幸福に触れている
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以上 –【エッセイ】夢と現実の記憶 – でした。
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