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『僕が僕であるために』と『I』。尾崎とケンドリック。(いと・をかし④)

やっぱりまだ『TT』について書けない

私が歌詞についてのnoteを書こうと思ったきっかけはTWICEの『TT』でした。
はじめのうち、ただのポップソングだと聴き流していましたが、よく聴いたら、歌詞がめちゃくちゃいい。表現力豊かな歌唱。そのことを熱っぽくいろんな人に語っていたら、「ブログにまとめてみなよ」と言われ、このnoteを書き始めました。

書きたいことが多いと難しい

前回の記事で、「次は『TT』について書きます」と宣言していました。


ここ数日間、『TT』のことしか考えていませんでした。
しかし、考えれば考えるほど考えがまとまらない。
書きたいことが多いと難しい。
想いが弱くても書けないけど、強すぎても書けない。

安室ちゃんありがとう

話は飛躍しますが、安室さんが引退されました。

個人的には『Try Me』がたぶん一番好きなのですが、『Try Me』と聞くとついJames Brownを思い出します。上下の画のギャップがすごい。

ちなみに、安室さんの『Try Me』の元ネタはこちら。

「I AM I」と「僕が僕であるために」

安室さんをキャラクターとして起用し続けていたKOSEが、今年「I AM I」というメッセージのもと、CMやウェブコンテンツなどを展開していました。
「I AM I」って私はわたしという意味で、「自分らしく」時代を切り拓いてきた安室さんの姿勢のことを示したメッセージです。
自分が男性であるからか、「I AM I」を謳った曲ということですぐに尾崎さんの『僕が僕であるために』が連想されました。ヒップホップ寄りの人であればK DUB SHINEさんの『オレはオレ』を連想するでしょうか。

『僕が僕であるために』と『I』をくらべてみました。

前置きが長くなってしまいましたが、そういうわけで今回は、『僕が僕であるために』を分析します。今回は比較対象を置いてみました。
最近やっと話題にされるようになってきたケンドリック・ラマーさんの、『I』という曲です。

ケンドリック・ラマーさんとは?

アメリカのラッパーです。御年31歳。説明すべきポイントが多すぎて難しいのですが、国内外で非常に影響力のあるラッパーです。今年のフジロックの2日目のヘッドライナーでした。
くわしいことが気になる方は、下記のファンキー社長さんの記事をご一読ください。(めちゃくちゃわかりやすくまとめてある…)

『I』とは?

ケンドリック・ラマーが2014年にリリースした曲です。早いビートに乗せて、「境遇に負けるな」というメッセージをさまざまな表現でラップしています。

僕がうだうだ解説を書くより

内容が気になる方は、ぜひ歌詞を読んでみてください。ケンドリック・ラマーの方は、「およげ!対訳くん」を引用させていただきます。(文脈上も文法上も難しい原語をいつも、自然な日本語に約されてすごいなあといつも感心させられます…)

共通点

最も強い共通点は歌詞の中身の構造です。どちらとも「僕」と「周り」の対立について語っています。どちらもネガティブな「周り」に対して立ち向かおうとしています。

相違点

では相違点は何か。細かく言うとたくさんありますが、僕はこの一点に尽きると思います。

自己肯定の順序

ケンドリック・ラマーの『I』のサビでは、ずっと「I Love Myself」というフレーズが繰り返されます。このフレーズこそこの曲のメッセージだと思います。一方、尾崎豊の『僕が僕であるために』のメッセージは「僕が僕であるために 勝ち続けなきゃならない」。

それぞれの曲の論理展開をおおまかにまとめると、
『I』

自分を愛してる ← 自己肯定
(だから) 
周囲に流されない≒勝ち続ける

『僕が僕であるために』

勝ち続ける≒周囲に流されない
(だから) 
自分を愛せる ← 自己肯定

ケンドリック・ラマーは自己肯定が前、尾崎豊は自己肯定が後になっています。これには、やや短絡的かもしれませんが、宗教の存在が強く影響していると推察します。

神と救いと愛と許し

『I』は神の存在を強く感じさせます。実際、歌詞に「God」という単語も出てきます。この自己肯定は、「どんなあなたでも愛される」という無償の愛から育まれていると考えます。
一方で、『僕が僕であるために』は「救いの不在」を強く感じさせます。周りの「自分らしく生きている(ように見える)人々」は、「救いの不在の中で自分でいられる人々」(もしくは、ただの「わがまま」な人)で、「状況をなんとかして自分でいられる人」に映るため、自己肯定は「状況をなんとかした後」になります。

それぞれの曲が人々の共感を強く惹きつけたのは、「自分」と「他者」と、「神」あるいは「救い」の関係について、欧米と日本、各々の時代において、多くの人が抱いている想いを音楽に乗せて歌ったからではないでしょうか。
ケンドリック・ラマーは、差別や対立、犯罪などで心が荒み、自信を失ったり自棄に陥っていた人々に、「自分は神に愛されている」と信じることや、黒人としての歴史や誇りを語ることで「自分を大事にすること」を伝え、望まないものを拒否する強さと、望むものを手に入れるために努力する大切さを思い出させた。
尾崎豊は、「救いの不在」を語ることこそが当時の日本人の多くにとって「救い」となり、全身でそれを歌う姿は、神聖に映っていたのだろうと思います。(発表された1983年当時、ツッパリの誕生などにより学校は荒れていて、思春期に問題を抱えていた若者は多かったようです)

ここまで書いてわかったのですが、尾崎豊の歌の根底にあるのは許しですね。たぶん、尾崎もふくめてみんな無意識に「僕が僕であるために 勝ち続けなきゃならない」って思っていて、尾崎はそれに対して「僕(君)は街にのまれて 少し心許しながら」という、すこし妥協する姿勢を示す。
全体(社会)における「救いの不在」を語ることが、個の妥協を許すことにつながり、それが「救い」となっている。

さいごに

自己肯定、無償の愛、宗教、神、救い、許し、僕、街。
語るには余りあるテーマが絡み合った2つの曲を比較してみました。結果として多くの得るものがあり、今回の比較も、「街」と「私」や「神」と「私」の欧米と日本の構図の比較も、引き続き様々に展開できると思うので、そしてつまるところ、日本人としてどういう心持ちだと生きやすいのかを見出すことにつながるような気がするので、少しずつ比較分析を継続していきたいと思います。

個人的に、尾崎豊の神格化されたイメージがどこから来たのか、なんとなくはわかるけど…というレベルでしたが、少し言語化することができて、ためになる考察になりました。

次こそTTについて書きます。

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