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アンティークコインの世界 〜エジプト属州貨〜


見出しの写真の「AEGYPVTVS(アエギュプトゥス」とはエジプトの古名で、ラテン語で現在のエジプトを指す。ローマ帝国の重要な属州だったエジプト属州。麦の生産地として有名で、ローマ本土の人々の食を支えていたほどだった。エジプトはローマの支配下に入った後も、貨幣は従来のギリシア幣制を使用することが許された。それゆえ、ローマとは異なる貨幣単位を利用していた。今回はそんなエジプト属州で発行された貨幣を紹介していく。エジプト属州貨は原則表面は皇帝の肖像だが、裏面にはエジプトの伝統的なモティーフが表されることがあり非常に興味深い。


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ローマ帝国エジプト属州アレクサンドリアで発行されたビヨン貨。材質は低品位銀だが、額面はテトラドラクマとして流通していた。ネロの治世初期に発行された。少年時代のネロ、彼の母アグリッピナの肖像が表されている。アグリッピナの首元に「LΓ」という記号が見られる。これは治世3年目を意味する。


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ローマ帝国エジプト属州アレクサンドリアで発行されたビヨン貨。こちらも額面はテトラドラクマとして流通していた。ポッパエア・サビナの肖像を描いている。彼女はイタリアのピケヌムの上流階級で、教養高く、美貌も兼ね備えた人物だった。ネロに仕えたオトの妻だったが、ネロの求婚を受け、妻となった。オトは離縁され、ルシタニア属州に左遷された。ネロの奇行を裏で操っていたのは、野心家のポッパエアだったと言われている。

ネロの治世では彼の失政や贅沢、ローマの大火の影響によりデナリウス銀貨は重量3.3g、銀含有率94.5%にまで低下した。1枚あたりの重量を大幅に減らし、銀の純度も少し下げている。贅沢についての一部の記録だが、ネロの妻ポッパエアはその美貌を維持するため入浴時は毎度ミルク風呂を用意させたという。


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ハドリアヌスの治世に発行されたドラクマ青銅貨貨。ナイルの神ハピを描いている。ローマではネイロスの名で呼ばれていた。彼は左手に豊穣の角コルヌコピア、右手にスゲを持っている。また、ナイルがもたらす豊かさを象徴し、腹部はふくよかな形で描かれている。岩に張り付ついているのはエジプトのワニの神セベクである。


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イスラエルの遺跡から出土したディオボル青銅貨。ハドリアヌス の治世に発行された。イスラエル考古学庁の正式な輸出許可を得ている。本貨の発行地はエジプトのアレクサンドリア造幣所なので、流通過程でイスラエルにまで運ばれたのだろう。古代エジプトで崇拝された聖牛アピスが描かれている。アピスは神殿内で大切に飼育されていたという。


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ローマ帝国エジプト属州アレクサンドリアで、ハドリアヌスの治世に発行されたビヨン貨。低品位銀貨で、額面はテトラドラクマ。古代ギリシアの英雄トリプトレモスを表している。戦車を牽引する蛇の姿にエジプトの文化が反映されている。太陽の冠を戴いているが、これはギリシアで描かれるトリプトレモスの蛇にはない描写で、明らかにエジプトのウラエウスを彷彿させる。


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ローマ帝国エジプト属州アレクサンドリアで、ハドリアヌスの治世に発行されたドラクマ青銅貨。船に乗るイシス女神とアレクサンドリアの大灯台を描いている。摩耗が激しくわかりづらいが、右手に描かれているのが大灯台である。大灯台は都市アレクサンドリアのシンボルであり、船乗りの目印としてその航海を手助けした。

世界の七不思議アレクサンドリアの大灯台が描かれた貨幣が実は遺されている。ローマ帝国のエジプト属州で一時期発行された。大灯台は現存しないため、伝承によるおぼろげな姿を具体化する資料と言える。エジプトの女神イシスと共に描かれており、当時の人間は神が巨大と認識していた手がかりにもなる。


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ハドリアヌスのエジプト訪問を記念して発行されたビヨン貨。低品位銀のテトラドラクマである。エジプトのアレクサンドリア造幣所で発行された。本貨は名目上テトラドラクマ銀貨として流通していたが、その品質は粗悪なものでビロンと呼ばれる低品位銀だった。ビロンとは銀の含有率が50%を下回る合金物に対して使われる言葉で、エジプト属州貨や帝政中期以降のローマコインでよく見られる。エジプトは金と銅に恵まれたが、銀がほとんど採れなかった。

ハドリアヌスの来訪を祝福するアレクサンドリア女神が描かれている。アレクサンドリア女神は左手で軍旗を掲げ、右手に持った麦穂をハドリアヌスに贈っている。ハドリアヌスは左手で笏を抱え、右手で麦穂を受け取っている。ギリシア文字で記された「IE」は、ハドリアヌスの治世15年目を示している。すなわち、本貨が130〜131年に発行されたことがわかる。


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ローマ帝国エジプト属州アレクサンドリアで、アントニヌス・ピウスの治世に発行された低品位銀貨。額面はテトラドラクマ。不死鳥フェニックスが描かれている。エジプト起源の神獣でベヌウが原型とされる。3世紀のローマの著述家ソリヌスは、クラウディウスの治世にエジプトでフェニックスが捕獲され、ローマに移送後、多くの民が見物したと記録している。


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ローマ帝国エジプト属州アレクサンドリアで、アントニヌス・ピウスの治世に発行されたビヨン貨。低品位銀を材質としたテトラドラクマ。玉座に座し笏を握るセラピスとケルベロスが描かれている。この構図はゼウスやバアルを表したギリシアコインで見られる伝統的スタイルである。セラピスは頭部に穀物の重さを計量する秤を載せている。これは豊穣神の属性を示している。


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ローマ帝国エジプト属州アレクサンドリアで、アントニヌス・ピウスの治世に発行されたビヨン貨。低品位銀のテトラドラクマ。セラピスとケルベロスが描かれている。セラピスはプトレマイオス朝時代にプトレマイオス1世により創造された習合神である。ギリシアの冥界神ハデスの属性を吸収したため、冥界の番犬ケルベロスを従えた姿で描かれるのが特徴である。


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ローマ帝国エジプト属州アレクサンドリアで発行されたビヨン貨。ビヨンとは低品位の銀を指す。額面はテトラドラクマ。アントニヌス・ピウスの時代に発行されたもので、カノプス壺を描いている。この名称は、アレクサンドリア近郊のカノプスという都市で生産が盛んだったことに由来する。オシリス神の頭部を象った壺だった。下エジプトのカノプスという街では、冥界神オシリスの頭部を模した壺を信仰の媒体として生産していた。ミイラの臓器を入れるカノプス壺と名称は同じでも別物。形が似ているので、かつての学者は混同し同じ名前をつけてしまった。


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コンモドゥスの治世にエジプトのアレクサンドリアで発行されたビヨン貨。低品位銀が利用されたテトラドラクマ。アレクサンドリア女神がコンモドゥスに冠を授ける様子が描かれている。また、女神は左手にエジプトを象徴するスイレンを握っている。ローマ皇帝と女神が同等の存在、あるいは皇帝の方が女神よりも格上の存在である印象を受ける意匠である。エジプトではローマ皇帝はファラオと認識されていたので、そうした文化背景もあるのだろう。

宗教上、古代エジプト人は特殊な思想を持ち、世界の均衡を保つファラオの不在は世界の消滅を招くと信じていた。それゆえ、彼らは王政が崩れることをひどく恐れた。結果、ローマ皇帝がファラオを兼任する形が採られた。王の登場こそが世界を脅かすと考えていた共和政ローマとは正反対の考え方で興味深い。


以上、エジプト属州貨を年代順で紹介した。エジプト特有の図柄が採用されていることを考慮するに、属州貨のデザインは皇帝の肖像を刻む原則を守れば、裏面のデザインは各地方の発行担当者に任されていたのかもしれない。この他、創造神プタハや蛇の神ウラエウスを表したものなど、興味深いデザインのものも存在している。ローマコイン収集はローマ本土で発行されたデナリウス銀貨が人気で最も主流となるコレクション対象だが、属州貨も意匠の意味が分かると楽しめるものが数多くある。


Shelk 詩瑠久🦋

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