見出し画像

いのちのやくそく ・アメリカで出会った瞑想 120

ーーーー
いのちのやくそく 」(池川明、上田サトシ著、2016年8月1日、センジュ出版より発売)より抜粋して、少しずつ「マガジン『いのちのやくそく』」に書いています。

今回は、「アメリカで瞑想に出会って、自分が社会を避けていたということに気がつく」ということをテーマに、こころのあり方と社会との関係性(120ページ)を書いています。

「人の振り見て我が振り直せ」という諺がありますが、人と関わらないでは、自分と社会との関係を見直す事は無くて、結局は自分を変えることはできないという事に気付かされた出来事を書いています。
ーーーーー

アメリカで出会った瞑想

アメリカに移り住んでからは、それまでの自分の生き方に気づくことになりました。「社会の一員として認められなければ自分の存在価値が無い」と思って、それまで周りに合わせて相手の反応ばかりに気にしていた自分がいたのです。
そしてそれから何年もかかりましたが、やっと「人に合わせることではなくて、自分が感じること」が大切なんだと、「感性」の大切さがわかるようになりました。

25歳から20年以上の間、僕はアメリカで過ごしました。ハワイ州にある大学に入学して、卒業後はカリフォルニア州のシリコンバレーでウェブデザイナーやIT関係の仕事をしました。働き始めてすぐに結婚したのですが、うまくいかずに数年後に離婚。そしてそれがきっかけで、心の内にこもるようになってしまいました。

当時、僕は鬱だったのだと思います。それまでできていた事が急に手につかなくなってしまいました。そんな状態のまま数年間を過ごして38歳になり、「いまだったらなんとなく前に進めそうな気がする」と思えるようになったころ、瞑想の学校に出合ったのです。

ある朝、通勤路で「メディテーション」(瞑想)と書かれた看板が目に飛び込んできました。それまでも毎日通勤途中に目にしていたはずなのに、そのときまで気がつきませんでした。きっとすべての物事には正しいタイミングというのがあって、あれが僕にとってそのときだったのだと思います。そしてその瞑想の学校(バークレー・サイキック・インスティチュート、BPI)に通うにようになって、僕の気持ちは次第に明るくなっていきました。今思えば、メディテーションとの出合いは、僕の人生のターニングポイントでした。

ーーーーー
BPI(バークレー・サイキック・インスティチュート)・・・天才的なサイキックと言われたルイス・ボストウィックが40年以上前にカリフォルニア州バークレー市に創設し、世界的に有名な多くのヒーラーやチャネラーを輩出した。全米でも屈指の超能力開発学校
ーーーーー

BPIでは、瞑想を通して潜在的な能力を引き出し、日々の生活に役立てることを教えています。そこで瞑想やヒーリングを学んだ僕は、その上のクレアボヤンス・プログラム(透視能力開発プログラム)を受講することにしました。あとで聞いたのですが、そのプログラムを受講希望して卒業できるのはほんの1〜2%ほどの人たちだったそうです。

それでも僕が卒業した年には、30人ほどの卒業生がいて、創立からのトータルでは5000人ほどの卒業生がいます。教師の層も厚く、在籍していたときには、約30人以上の優秀な先生や助手が教壇に立っていました。

BPIのクレアボヤンス ・プログラムでは、「クライアントの方々に投資能力を使い、見えた事柄を言葉にして伝える」というスピリチュアル・カウンセリングをインターンとして行います。僕も先輩やクラスメイトたちの横に座って一緒にカウンセリングをするのですが、英語もさほどうまくなかった僕は彼らのように流暢な言葉が出てきません。

「流れるような英語が出てこなかったら、的確にポイントを指し示すような言葉を紡いで伝えればいい。それには、人の何倍も、だれよりも努力しなければ」
そう考えた僕は、寝る間を惜しんで練習を重ねていったのです。

たましいの言葉

プログラムを受け始めたころは、どうすればいいのかわかりませんでした。気持ちばかり焦っていたのですが、ある女性のカウンセリングで「ふっ」と力が抜ける瞬間があって、そのときに突然、子どもの姿が見えてきたのです。

「もう亡くなっている男の子だと思うのですが、そのことあなたの関係はとても特別な、大切な関係だったようです」
男の子の姿を見ながら、僕はそう口にしました。

「その言葉の意味が、とてもよくわかります。あの子が生まれたとき、わたしはとても幸せで特別な気持ちでいっぱいになったんです。ずっと昔から知っていたような、懐かしくて嬉しい気持ちでいっぱいになったのを覚えています。でも5歳になる前に、突然病気になって死んでしまって。あっという間でした」
僕の言葉を受け取ったその女性は、懐かしそうに昔を思い出しながら、そう言いました。

このとき僕は、「特別」と言うだけでは説明し切れない、もどかしさを感じていました。本当はふたりが「前世からの知り合いだった」などと、もっと伝えたいことがありました。それなのにうまく言葉にすることができず、じれったい思いを抱えていたのです。

(亡くなっている子がいて、その子が何かを伝えようとするだなんて、そんなこと、あるわけがない。見えたと思ったのは、ただの想像だ)

そんなふうに否定する気持ちが僕のどこかにあって、世間の常識を持ち出して、僕の感性をブロックしていたからだと思います。だから、感じたことを自分の言葉にすることができなかった。

このときの僕は、心の壁を取り払って、深い言葉で人とつながるということが、そして、だれかのたましいと深いレベルでつながるということが、怖かったのだと思います。それまで人と深く付き合うのを極力避け、自分のたましいでさえも深く理解するということを避けていたのですから、当然と言えば当然なのかもしれません。
そして僕はこのとき、「自分を知るのが怖かったのは、弱い自分を認められなかったからだ」ということに初めて気づいたのです。

しかし、どうにか伝えることができた僕のつたないメッセージに、彼女は心を動かしてくれました。亡くなった男の子も、最愛の子どもを亡くしてしまったこのお母さんも、彼らが確かにそこにいて、「ふたりの間には愛があった」ということをだれかに知ってほしかったのだと思います。

時が経って愛する人が亡くなっても、愛はいまでもそこにある。人が死んでも愛は消えずに、今ここに生きる人に「生きる力」を与えてくれている。そんなことを思うと、僕は自分の心の壁やとらわれている常識、プライドなどを手放して、このことを伝えなければいけないと思うようになりました。

カウンセリングでは、僕が見えたことや感じたことを、丁寧に言葉を選んで紡いで伝えるようにしました。すると、多くを語らなくても、また、ほんの数分間という短い時間であっても、僕の話をクライアントさんが身を乗り出して真剣に聞いてくださるようになり、僕自身、その人たちのたましいと深くつながる実感がありました。このような経験は、それまでの僕の人生を振り返って見ても初めてのことでした。

人と深くつながるのを極力避け、社会とつながることを避けていたそれまでの自分、そして自分の心の中にさえ壁をつくって、本当の自分の心に目を向けず、耳を傾けずにいた自分。僕はいつの間にか、「なんのために生きるのか?」という問いの答えを見失っていました。

しかし、僕の言葉に感動して涙を流す人が目の前にいる。そのことに、僕のほうこそ感動し、そして生きる希望を持てるようになったのです。彼らの涙はまるで、僕の渇いた心に染み入っていくように感じました。

ーああ。遠回りしたけど、やっと僕は居場所を見つけたんだ。
そうやって、生きる実感を持てるようになったのです。

結局のところ僕のたましいは、初めから人とつながることを望んでいたのです。自分の存在を認められ、人の役に立てる喜びを知ると、生きる力になる。
そう僕に教えてくれたのは、他ならぬ、僕の声を頼りに僕を訪ねてきてくださったアメリカで出会った方々でした。


【お知らせ・おすすめの拙書】

何かとお得な無料メルマガ情報の申し込み
オンライン瞑想会の詳細
「整え親方の整え部屋」(コミュニティFM番組)の放送予定
・『パワースポットのつくりかた』購入
・『いのちのやくそく』購入


よろしければサポートお願いします!いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせて頂きます。