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小説 「補聴器と猫の島」

~あらすじ~
大学生の時に発症した難聴を抱え、夫にも周囲にも遠慮しながら過ごす花帆。勤続10年の休暇に、小さな島へ行くことに。初めて買った補聴器を着け、島の自然や猫たちに癒やされていく。そこへ不穏な言葉が飛び込んできた。「決闘だ」と息巻く男たちの荒々しい声。「おっ父を殺した」と告白する女の密やかな声。補聴器のフィッターの協力を得て事件の謎を追う。しかし全ては・・・。
真相を知り、島の穏やかな暮らしに触れ、難聴で悩んでいた心が和らいでいく。すれ違っていた夫にも、言えなかった言葉を伝える。帰りの船が出航する。それは新しい自分への旅立ちだった。



[1] 雷鳴


聞いて驚け。
私の拍手はスペイン仕込みだ。

山手線のホームは帰宅を急ぐ人々でごった返していた。大学を卒業して数年ぶりに出くわした友人は、昔とおんなじ顔で花帆にニッと笑いかけて言った。

「花帆ちゃん。ハクシュしてくれない?」

拍手だ?突然、なにを言ってるんだ、この人は?と花帆は早瀬健太の顔をじっと見つめ返した。どうやら本気で言ってるらしい。

いいでしょう、やってやろうじゃないの、と花帆は心の中で胸を張る。先日、会社の先輩に招待され、フラメンコ教室の発表会を観に行ったばかりだ。いつもきれいめ系ファッションの先輩が真っ赤なドレスで登場した時は、口があんぐり開いたが、フラメンコファンの観客が万雷の拍手を送る様子には心が動かされた。旧友との再会には、あのラテンの雷鳴がふさわしい。

パン!パン!パン!パン!

花帆は思いっきり拍手した。ホームに場違いな音が響きわたり、人々が振り返った。

「おー、どうしたの?会えてうれしかった?」と言いながら、健太が手を差し出した。

アクシュしてくれない?久しぶりだからハグしたいけど、握手でがまんする」

恥ずかしさで耳まで真っ赤に染まった花帆を見て、未来の夫は憎たらしいぐらい楽しそうに笑っていた。

拍手と握手を聞き間違えた10年前を振り返り、朝の通勤電車にゆられながら、花帆の耳はまた熱くなった。さっき、手をつないでホームを歩く老夫婦を見たから思い出したのかな。夫の健太ともあんなふうに一生、手をつないで生きていきたいと思っているが、最近、花帆の難聴に以前ほど気をつかってくれなくなり、お互いにイラッとすることが増えてきた。

ため息をつきかけた時、祖父の言葉が頭に響いた。

「花帆、なっとうしたん?ため息つくと、幸せが逃げていくでぇ。笑っていこら」
「なっとうって、なーにー?」
「どうしたの、っていう意味やな」

京都生まれの花帆は、太平洋を望む母の故郷で過ごす夏休みを毎年、楽しみにしていた。はしゃぎすぎた花帆が叱られて元気をなくすと、祖父がいつも隣に座って話を聞いてくれた。ため息をつくと自律神経のバランスが整う、と大人になってから知ったが、花帆は電車の窓から天国を見上げ、そうだね、おじいちゃん、と大きく息を吸いこんだ。

いつのまにか浜松町駅に着いている。乗り過ごすところだった。朝、余裕で家を出ても、花帆はたいてい会社に向かって走るハメになる。通勤路には誘惑が多いのだ。「今日のおやつ、どれにしよ?」とコンビニで迷っていたら、あわや遅刻寸前だ。草むらに猫が見えたので「真っ白な猫だ!」と探したら、ただのビニール袋で、またも遅刻寸前だ。

今日は無事、始業10分前に到着した。花帆はメーカーの営業で、仕事は取引先のバイヤーに自社製品を売りこむこと。商談に出かける日もあれば、販促担当として店頭展示を確認しに行く日もある。

花帆は大学生の時、突発性難聴を発症して、今も右耳が聞こえにくい。突発性難聴は、日本では年間3〜4万人が発症し、最近は数が増えているらしい。そのうち4割の人は治り、4割は改善し、残りの2割が改善しにくいという。花帆も発症当時、治療を受けたが、完全には回復しなかった。ここ数年はマスクのせいで苦労した。今朝の定例ミーティングも、遠い席で部長がモゴモゴ話しているが、どうにも聞こえにくい。モゴモゴ部長が恨めしい。聞き逃さないように全集中力を耳に集めるので、1日が終わる頃には耳も頭もぐったりだった。

そんな花帆に、近々、大きなごほうびがやってくる。勤続10年の今年、10日間のリフレッシュ休暇がもらえるのだ。ありがとう、会社!よく働いた、私!健太も行く?と誘ったが、会社を休めないと断られた。一人旅、上等。
どこ行こうかな、やっぱりイルカかなぁ、と花帆はスマホをスクロールする。幼い頃、水族館のイルカショーを見て以来、イルカは大好きな動物No.1だ。難聴が進んで会話に苦労するようになってからは、超音波で軽々とコミュニケーションをとるイルカをうらやましく思うこともある。

「野生 イルカ 日本」で検索すると、イルカはあちこちに出没していた。その時、「東京都利島村」という文字が目に止まった。リシマ?トシマ?としま、だ。

東京から南に140km。伊豆諸島の小さな島。島の周囲は約8kmで、島全体が椿に覆われている。人口は約300人で、観光客もそれほど来ない、のどかな島。野生のイルカが定住していて、しかも島には猫がたくさんいるらしい。木陰でのんびり過ごす猫の写真もあった。ペット禁止のマンション住まいで、花帆は猫に飢えていた。決まりだ。
利島としまが花帆を呼んでいる。

利島としまでリフレーシュッ!」と小さく叫んで、早速、宿を探して電話する。島にホテルはないが、民宿が数軒ある。ところがドルフィンスイムができる宿は団体客や長期宿泊客で埋まっているという。花帆の心は、もう利島としまでいっぱいだ。イルカと一緒に泳げなくてもがいる。猫に会いに行こう、と空いていた民宿を予約した。

休暇中に、もう一つやりたいことがあった。補聴器を使ってみようと考えたのだ。花帆が購入したのはメディカルリスニングプラグという名の補聴器だった。見た目はワイヤレスイヤホンで、色は肌になじみやすいナチュラルピンクだ。

メディカルリスニングプラグは、スマホアプリでプロのリモートフィットサービスが受けられる。フィッターが、一人一人の聴力に合わせて聞こえ方を調整してくれるのだ。一般的な補聴器は何度も店で調整する必要があり、それが花帆には煩わしかった。

先日、最初のステップである「パーソナライズ」も済ませ、花帆は旅先でメディカルリスニングプラグを試すつもりだった。うまく使いこなせれば、休み明けから会社にも着けていこう。

問題はその勇気が出るかどうか、だ。


出発前夜、花帆はバッグに荷物を詰めながら、テレビを見てケラケラ笑っている健太に声をかけた。

「私のTシャツ、見なかった?エブリデー イズ サンデーって書いてるやつ」
毎日が日曜日。旅のお供にぴったりだ。

「×××××にあるよ?」
健太の答えが、よく聞こえない。
「え?どこ?」
「×××だよ」
「ごめん、もう1回言ってくれない?」

健太は無言で立ち上がり、リビングの隅に畳んで積んであった洗濯物の山から、エブリデー イズ サンデーを引っ張り出し、無言で花帆に渡すと、そのまま風呂へ向かっていった。どうやら、あの洗濯物の中にある、と言っていたらしい。健太の後ろ姿にかけた「ありがとう」という言葉が、宙ぶらりんで部屋の中を漂っていた。

言いたいことあるんやったら、言えばいいのになぁ、と花帆は心の中でつぶやいた。昔、ハワイに行った時、健太はレストランでベーコンのことをバコーンと注文し、店員に聞き返されるたびに「バコーン!」「バコーン!」と大きな声で繰り返した。あの時の根性はどこへ行った。

花帆のモヤモヤとした気持ちは翌朝になっても晴れず、朝食の会話も弾まないまま、いってくるねと小さく声をかけ、玄関ドアをバタンと閉めた。

[2] 天罰


家が遠ざかるにつれて、昨日からのモヤモヤは晴れていった。

東京の竹芝港から利島まではジェット船で約2時間半。港近くの浜松町駅に着く頃には、花帆はすっかりウキウキしていた。浜松町は会社の最寄り駅でもある。いつもなら駅を出て左へ行くが、今日は右へ。花帆は弾んだ足取りで竹芝客船ターミナルへと入っていった。

待合室には伊豆諸島の島民だろうか、ちょっと買い物に来ましたよ風な軽装の人もいれば、釣り道具を抱えたグループもいた。花帆は充電ケースからメディカルリスニングプラグを取り出し、耳に着けた。乗船案内のアナウンスが少しうるさいぐらい、よく聞こえる。

船に乗り込むとすぐ出航の汽笛が鳴った。花帆は、岸で見送る港の人たちに小さく手を振り返し、真夏日予想の東京と、仕事と、健太にしばしの別れを告げ、海の上の人になった。船はレインボーブリッジをくぐり抜け、一路、大海原へ進んでいく。

定員約250名の船はほぼ満席だったが、花帆の隣は空いていたのでスニーカーを脱いでくつろぐ。前の席からはクスクス笑いながら遊ぶ幼い兄弟の声。
仲良きことは美しきかな、と目を閉じて眠ろうとした花帆の足に、何かがポトッと落ちてきた。見ると、乾燥した豆だった。弟がドライ納豆の菓子袋を振り回していた。花帆は苦笑して、スニーカーで豆を端へ寄せた。目を閉じると、また椅子の隙間から豆がポロポロ降ってきた。

「こらぁ。だれですかー?納豆をこぼしてるのはー?」と花帆が前をのぞきこむと、犯人の弟はバレバレの狸寝入り。お兄ちゃんは犯人を指差して、あっさり裏切る。なんてかわいい犯人だ、と花帆は笑うしかない。船が伊豆大島に到着すると、納豆事件の兄弟は、爆睡から目覚めたお父さんに手を引かれて降りていった。


ほとんどの客が下船し、船は軽やかに水面を走る。30分ほどで、もう利島としまだった。船は汽笛を鳴らして、ゆっくりと港に入った。桟橋に降り立つと、西風で花帆の髪はもみくちゃになった。風が強い日は欠航したり、船が引き返したりすることもあると船客が話していたので、今日は運がいい。

正面には白と黄色に塗られた船客待合所。その後ろには美しい宮塚山みやつかやまがそびえたっていた。どこかで見たことがあると思ったら富士山に似ている。

港には迎えの車が数台停まっていた。巡回中のパトカーもいる。花帆は「なかみち荘」と書かれたパネルを持つ男性に近寄った。

「こんにちは。早瀬です。お世話になります!」
「こんにちは。なかみち荘の梅田です。どうぞ乗ってください」
浅黒く日焼けした宿のおじさんが、軽バンの後部座席ドアを開けてくれた。
車は、港を出て坂道を上がっていく。

利島としまはですね、ゆるやかな傾斜地に村があるから、村の中は坂道が多いんですよ。道も狭いから軽バンか軽自動車じゃないと運転が大変なんです」
おじさんは慣れたもので、細く曲がりくねった坂道をスイスイと走る。窓越しに家々を囲む石垣が見えた。丸い石が斜めに積まれている石垣を見るのは初めてだ。

「この石垣は玉垣たまがきといって、昔の人たちが、海から丸い玉石を運んできて積んだんですよ。今は石を取っちゃいけないことになってるから、玉垣は島の大事な宝なんです」
メディカルリスニングプラグを着けていると、後部座席からでも前の声がよく聞こえる。私なら急な坂道を曲がれなくて玉垣に激突だな、と思いながら、へぇぇとか、ほぉぉとか感心していると車が停まり、「到着しました」とおじさんが言った。

車を降りた花帆は声を上げた。
「うわぁぁぁぁ!素敵ー!」

昭和レトロな木造2階建てのなかみち荘は、初めて来た場所なのに昔から知っている場所だった。ガラガラと戸を開けると、1階にはソファが置かれた小さなロビーとWi-Fiの貼り紙、長い廊下に障子の部屋、ガラス戸の部屋は食堂らしい。民宿というより人の家に来た気分になる。奥から女将さんらしき人が出てきた。

「いらっしゃい。早瀬さんですね。東京からだよね。疲れたでしょ?」
と、ぷっくりした福々しい笑顔で迎えてくれた。

「女将さん、よろしくお願いします」
花帆はペコリと頭を下げる。

「やだやだー。女将さんって柄じゃないの。梅田凪子です。凪子とお呼びください。お父さんのことは旦那さん?大将?やだー、お父さんでいいよね」
「じゃあ、私も花帆で!」
「花帆ちゃんね。利島としまへようこそ、いらっしゃいませ」

「早瀬さんの部屋は2階です」
お父さんは、変わらず早瀬呼びだ。

先に立って黒光りした木の階段を上がっていく。2階の廊下は歩くたびに床板がキシキシと鳴った。マンション住まいの花帆は、もうそれだけで楽しかった。廊下の突き当たりにあるドアをお父さんが開けた。

「この部屋です」
「うわぁぁぁぁ!海だー!」
和室の真ん中にちゃぶ台、窓辺に小さなテーブルと椅子。窓の向こうに見えるのは、空と、海と、木。最高すぎるっ、と花帆はぴょんぴょん飛び跳ねそうになったが、木造の2階でジャンプするのはいただけない。

遠くに島影が見える。

「あの島、なんですか?」
「あれは大島です。わりと近くに見えるでしょ?」
空と島と海が美しい青のグラデーションになって溶け合っていた。

「夕食は6時でいいですか?」
と確認してお父さんが階段を降りていった後も、花帆は外を眺めていた。
窓辺の木には赤い花が咲いている。風にゆれる枝の上で小鳥が鳴いていた。
鳥の声をちゃんと聞いたのはいつぶりかな、と耳元のメディカルリスニングプラグにそっと触れ、鳥が飛んでいってしまうまで窓辺に佇んでいた。

「うわぁぁぁぁ!ごちそうだー!」
夕食のテーブルには、ピッカピカに光ったお刺身、皮目がパッリパリの焼魚、そして謎の葉っぱの天ぷら、謎の茶色い握り寿司。凪子さんがごはんのおひつを運んできた。
「お刺身はカンパチとイカです。うちのお父さんが釣ってきたのよ。焼き魚はイサキね。5月、6月のは梅雨イサキといって、とっても脂が乗ってるの」
花帆は、刺身のツルルンとした弾力にうなり、焼き魚のジュワッとにじむ脂にうめき、大忙しだ。
葉っぱの天ぷらには、ほのかな苦み。山菜だろうか。

「この天ぷらはなんですか?」
「それは明日葉あしたば。今日摘んでも明日には新しい葉が出てくるっていわれてて、そこらじゅうに生えてるんですよ。内地はどうか知らないけど、島の人が食べるのはやわらかい新芽だけ。ちょっと苦みがあるけど大丈夫かしら」
「何個でもいけます」
そーお?よかった、と笑う凪子さんに握り寿司のことも聞く。

「島寿司っていうの。またの名を、べっこう寿司。島とうがらしを入れた醤油に白身魚を漬けてあるから、ちょっとピリッとするでしょ?」
ツヤツヤと飴色に輝く島寿司を口いっぱいに頬張りながら、花帆はうんうんとうなずき、おいしいごはんと幸せをかみしめた。

脳裏にチラリと東京で一人、夕食を食べる健太の姿が浮かんだ。寂しいかな?いや、羽を伸ばしてビールを何缶も空けてるはず、と花帆は頭を振って健太を追い払った。でも連絡はしなくちゃ、と夕食後、健太にLINEを送る。

「無事に利島に着きました」

まだ、わだかまりが残っていて他人行儀な文章になる。送った途端、既読が付いた。

「了解」

健太のメッセージは普段から短いので通常運転だが、もうすこし書いてくれてもいいのに、と花帆は自分の素気ないメッセージを棚に上げた。

カーテンを閉め、部屋の隅にあった布団を敷いて寝転がった。楽しいのか寂しいのか、解放感なのか孤独感なのか、自分でもわからない、まだらな気持ちを持て余していると、窓からカリカリカリと小さな音が聞こえた、気がした。

「え、なに?やだ!」
花帆はなぜか近くにあったテレビのリモコンを握りしめ、恐る恐るカーテンの端を開けた。外は真っ暗で何も見えない。音もしない。気のせいだよね、と自分に言い聞かせながら布団に潜りこむ。メディカルリスニングプラグを充電ケースに大切にしまい、夢の中へと沈んでいった。

カア!カア!カア!
カラスめ、朝が早すぎる、と花帆は夢うつつの中で毒づき、ギュッと目をつぶるが、カラスは再びカアカアカアだ。あきらめて起き上がり、窓を開けた。今日も利島としまは快晴だ。

見下ろすと、裏庭に猫がいる。カラスに起こされた不機嫌はたちまち消え去り、花帆は裏庭へ飛んでいった。裏庭は猫のパラダイスだった。黒茶白の三毛、黒と灰色のサバトラ、茶白トビ。そっと近づくと、寝ていると思った猫が目を開き、警戒モード。ごめんごめん、と離れたところから寝姿を堪能させていただいた。

朝から眼福だとホクホクして部屋に戻ると、窓辺に白黒の猫がいた。エアコンの室外機に座って網戸の向こうから部屋をのぞきこみ、ンニャーーと鳴いた。昨夜のカリカリ犯は、きっとこの子だろう。私が寂しくないか見に来てくれたのかな、と花帆は思い、シロクロに手を振った。

朝食をとりに食堂へ降り、お膳を並べていた凪子さんに、おはようございます、と声をかけた。

「裏庭に猫が集まってるのを見ました!」
「そうなの。野良なんだけど、庭の居心地がいいみたい」
「子猫は見かけなかったな」
「ノラネコは内地や大島へ連れて行って去勢か避妊手術してるからね。オオミズナギドリっていう海鳥を捕っちゃうから、増えすぎないようにしてるの。花帆ちゃんも猫に餌をあげないでね」
「はーい。愛でるだけにします」
目玉焼きを突っつきながら、花帆は答えた。

「花帆ちゃん、今日はどこか行くの?」
「島をぐるっと歩いてみようかな、と思ってて」
「車の運転はできる?」
「まぁ、なんとか……」
「じゃあ、うちの車、使ったら?島はレンタカー屋さんがないから、車を使わない時はお客さまにお貸ししてるの。島を一周する道路は道も少し広いから大丈夫よ。信号もないし」

お言葉に甘えることにして、部屋に戻る。出かける前に、とスマホのメディカルリスニングプラグアプリを立ち上げた。チャットボタンを押すと画面にメッセージが表示された。

「ご利用いただき、ありがとうございます。何かお困りごとがありましたら、フィッターがサポートいたします。このチャットでご連絡ください」

花帆は、メディカルリスニングプラグを初めて使ったこと、風の音が気になることを入力して送信した。しばらくするとサービスセンターからメッセージが返ってきた。補聴器のマイクに強い風が当たると「風切り音」という騒音が生じるそうだ。チューニングリクエストで調整できると教わり、花帆はリクエスト画面で「風の音がうるさい」にチェックを入れて送信した。

お父さんから軽バンのキーを受け取り、おすすめの観光スポットを聞く。
「景色を見るなら島の南側ですね。南ヶ山園地みなみがやまえんちがおすすめかなぁ」
「夜になったら星がきれいなのよぉ。昔、二人で流星群を見に行ったのよね、お父さん?」
と凪子さんが口をはさむ。
お父さんは完全スルーで話を続けた。
「途中に一番神様があるから立ち寄るといいですよ」
「一番神様?」
「山の中に一番神様、二番神様、三番神様って呼ばれる神社があって、お正月、島の人たちが順番に回って参拝するんです」
一番神様は阿豆佐和気命あずさわけのみこと本宮、二番神様は大山小山おおやまこやま神社、三番神様は下上おりのぼり神社。

アズサワケノミコト。
オオヤマコヤマ。
オリノボリ。
語呂がいい。

今日はひとまず本宮へ行く。宿を出発し、島で一番急な坂だと教わった道を亀のようにノロノロ上がり、利島一周道路に出る。

集落を抜けると、山だった。道の両脇には椿の木立が続いていて、下草がきれいに刈られていた。花帆はスマホのナビが示す細い道を、対向車が来ないことを願いながら進んだ。

突然、道の横に小さな鳥居が現れた。その前には小さな賽銭箱。一番神様だ。鳥居の先には苔に覆われた丸石の階段が続いていた。

由緒看板を見ると、アズサワケノミコト様は伊豆諸島をつくった神様である事代主命ことしろぬしのみことの子で、王子だそうだ。シシガミ様のオッコトヌシなら知ってるんだけどな、と言いながら、お父様のコトシロヌシノミコト様をググると、中世の頃からは恵比須様と呼ばれて同一視されていたという。

「アズサワケノミコト様って、恵比須さんチの息子さんなんだ!」
京都にいた頃、毎年遊びに行っていたえびす祭りを思い出し、たちまちミコト様親子が身近になる。

お賽銭を入れ、この旅が楽しくなりますように、メディカルリスニングプラグを使いこなせますように、ついでに留守番の健太が飲みすぎませんように、と手を合わせた。

南ヶ山園地は神社からすぐだった。芝生広場の先には絵のような絶景が広がっていた。大海原に島がぽつり、ぽつりと浮かんでいる。
新島にいじま式根島しきねじま神津島こうづしま三宅島みやけじま御蔵島みくらじま
伊豆諸島が一望だ。

ホーホケキョとウグイスが鳴いた。ケケケケ、ケキョケキョ、ケキョケキョケキョ。鳥の声がはっきり聞こえる、と花帆はうれしくなって耳を澄ました。

集落へ戻り、お昼ごはんを調達する。島には商店が数軒あり、一番大きいのが農協の店だ。入口には「利島としま農協」と染め抜かれたのれん。横の黒板に「前田食堂」「学校給食」の文字。奇妙な記号も書かれていた。

店内には所狭しと品物があふれていた。スーパーと、ホームセンターと、道の駅の産地直売所と、お土産屋さんを1つにまとめたような店だった。花帆はお惣菜パンとシュークリーム、ラテを手に取った。

農協を出て港へ行くと、桟橋には港湾の職員以外、人の姿はない。ベンチもないので車の中で食べることにする。窓を開けると強い西風が吹きこんできた。

職員があわただしく動き出したと思ったら、大型客船が入ってきた。朝、南の神津島こうづしまを出て、利島としまに寄り、夜に東京へ着く便だ。逆に夜、東京を出て船で一泊し、朝方に島へ着く便もある。

桟橋をブラブラと歩いていくと、船から降りてきた人たちとすれ違う。大きな犬を連れたおじさんもいた。海をのぞきこむと、港とは思えない透明度で、すぐそこに魚がいる。刺身がたっぷりとれる大きさだ。

花帆は釣りが趣味だ。いや、趣味にしようと思っていた。以前、まきエサを使うサビキ釣りに挑戦したら、小アジが数十匹も釣れて味を占めたのだ。
明日は釣りだ、と決めて宿へ戻った。

車のキーをお父さんに返し、釣り道具のレンタルがあるか尋ねると、使っていない餌釣りの道具があるから使えと言う。利島としまは魚屋がなく、島の人は自分で釣るか、人からもらうらしい。釣竿は生活必需品なのだ。

「イカの頭とゲソがあるから餌にしたらいいよ。冷蔵庫に入れとくから明日持っていって?」
「わ、うれしい」
「魚じゃなくて海亀が釣れたらリリースしてあげてね」
「カメ!? わかりました」
「桟橋で伊勢海老と目が合っても獲っちゃダメだよ。密猟になるから」
「イセエビ!? わかりました」

明日は朝4時すぎに宿を出る。花帆は急いで夕食を済ませ、風呂に入り、部屋で髪を乾かした。

そうだ、忘れてた、とメディカルリスニングプラグのアプリを確認する。昨日頼んだ風切り音の調整ができたらしく、新着データが届いていた。アプリの登録をタップすると、本体への登録も完了だ。明日はビデオカウンセリングもやってみよう。アプリのビデオ画面でフィッターと話しながらカウンセリングや聴力チェックをしてもらえる。花帆は希望時間を選んで申し込む。
すぐに予約が受理された。

健太からのメッセージは、ない。花帆は「明日早いから寝ます」とLINEを送る。今日も一瞬で既読がつき、「了解」と返信がきた。

健太は四六時中、花帆とのトーク画面を見ているのかもしれない。ほんなら健太からメッセージくれてもええのに、と花帆はしょんぼりするが、健太に構っている暇はない。明日は朝が早いのだ。

朝4時半、日が昇り始めた桟橋には釣り人が並んでいた。花帆は針にイカを付け、投げてはリールを巻き、投げては巻き、を繰り返す。ついにアタリがきた。引き寄せると、隣にいたおじさんがタモ網ですくってくれた。

「カンパチだ!」
40cmは超えている。花帆にとっては超大物だ。

それから夢中で釣り続け、気がつくと日はすっかり高く昇っていた。桟橋の先端で釣っていた男たちが連れ立って帰っていく。どす黒く日焼けした険しい顔立ちで、威圧感を放つ筋肉隆々の体を誇示するように全員、半袖短パンだった。彼らが花帆の後ろを通り過ぎる時、荒々しい怒声が聞こえた。

「天罰だよ。明日は全員決闘だ」

花帆はギョッとして振り返った。男たちの背に風が強く吹きつけ、声はちぎれて海へ飛ばされていく。

「あした…しちじ……きてきが……」

部屋にメディカルリスニングプラグを忘れてきたことを悔やんだ。「明日、7時、汽笛」だろうか。それが決戦の合図なのかもしれない。

半袖短パン軍団は好戦的に肩をいからせて去っていった。天罰を下すとは、相手がやらかしたことも並大抵の悪行ではないのだろう。利島としまは小さな島だが神社が多く、島民の信仰心も厚い。神様に楯突くひどいことをしたに違いない。

昨日、島に着いた時、港にパトカーがいた。あれも決闘の情報を聞きつけてパトロールしていたのだ。農協の黒板にも奇妙な記号が書かれていた。あれは暗号だ。

それにしても半袖短パン軍団は一体、誰と闘うのだろう、と花帆は首をかしげた。のどかな島だから島民も皆、優しそうと思っていたが、実は血の気が多いのか。フラメンコ先輩もきれい系な服は仮の姿で、その実態は真っ赤なドレスの猛女だった。古くから島にいる人と新しく来た移住者の決闘だろうか。

利島としまは移住者が多く、20代から40代の8割がIターンで移住してきた人だ。しかし、昔から住んでいる島民と移住者は、決闘どころか仲がいい。昨夜、凪子さんも言っていた。週に1度ある太鼓のサークル活動では、移住者も一緒に和気あいあいと練習しているそうだ。「今日は利島としま太鼓の会だから、お父さん、後片付けよろしくね」と、いそいそ出かけた凪子さんの笑顔は本物だった。

旧住民 v.s. 新住民の線は薄い。


とにかく一度、宿へ帰ろう。隣のおじさんに礼を告げ、クーラーボックスを担いで歩き出す。超大物カンパチ1匹と小物2匹。花帆にとっては大漁の釣果が、決闘の2文字とともに肩にずっしりと食いこんだ。厨房に顔を出すと、お父さんが朝のニュースを見ていた。クーラーボックスを差し出すと、「お、頑張ったね。夕食にお出ししますよ」とねぎらってくれた。

花帆は、決闘のことを聞いてみようかと迷ったが、自分が聞いた言葉に自信がない。朝食の納豆をグルグルグルグルかき混ぜながら、悩んだまま朝食を食べ終えた。

部屋に戻って敷きっぱなしの布団に寝そべると、急激に睡魔が襲ってきて、目覚めると昼だった。寝ぐせでハネた髪を直し、食堂へ降りていく。さっき朝食を食べたばかりだが、頼んでおいた昼食のカレーもありがたくいただく。

午後はビデオカウンセリングだ。予約時間にスマホ画面を開くと、花帆の顔と並んで、フィッターの顔が映し出された。イケメン風のメガネ君だ。

「こんにちは。フィッターの藤高です。今日はビデオカウンセリングをお申し込みいただき、ありがとうございます」
「フイ……フジ?サ、カ?」
「聞き取りにくいですよね。フ・ジ・タ・カです。難聴の方はカ行、サ行、タ行、ハ行を聞き間違えることが多いのに、僕の名前、全部入ってるんですよ。申し訳ないです」

ビデオカウンセリングでは、まずフィッターが聞こえについて質問をする。次に聴力チェック。最後にフィッターが調整した設定データをメディカルリスニングプラグに登録して、試聴する。藤高はいくつかの質問を花帆に投げかけ、花帆は丁寧に答えていった。一通り終わると藤高が尋ねた。

「今日、風切り音を抑える設定データをお送りしましたが、いかがでしたか」
「あー……。まだ試してないんです。今、旅行中で。ここ、島だから風が強くて」
「なるほど。早瀬さんが普段お使いになられる場所と、かなり状況が違いそうですね。では、ご自宅に戻られたら改めて試してみましょうか」
「そうします。で……、あのー、えっとー」
これじゃ、まるでモゴモゴ部長だ。花帆は思いきって言った。

「聞き間違えかもしれないんですけど、今朝、港で聞いたんです」
「何を、ですか?」
「男の人たちが天罰とか決闘とか言ってて」
「天罰?うーん、なんだろ?」
「明日7時の汽笛が合図みたいで」
「あぁ、それは7時じゃなくて1時かもしれません。難聴の方は聞き間違えることがよくありますから」
「そっか。明日、港に確かめにいこうと思ってんだけど、朝と昼どっちだろ」
「え、危なくないですか?」
「大丈夫、大丈夫。離れたところから決闘を見守ります!」
「心配ですね。くれぐれも安全第一で」と、業務外の相談なのに、藤高は優しい。

「それでお願いがあって。汽笛を聞き逃さないように調整してもらえますか?」
「なるほど。チューニングのご依頼ですね。汽笛は音が大きいので、早瀬さんの耳の状態なら十分聞こえると思いますが、万が一に備えて……今回だけ特別に……汽笛の周波数帯域を改善すればいいか……」藤高がブツブツつぶやく。パソコンで何か調べているようだ。

「そっか。船の全長によって汽笛の周波数が決まってるんだ。早瀬さん、どんな船かわかりますか?」
花帆はバッグから船の時刻表を取り出した。

「ジャストじゃないけど7時と1時近くに着くのは大型客船です。さるびあ丸!」
「さ、る、び、あ、丸。全長118mか。その場合、汽笛の周波数は130から350ヘルツ……。わかりました。低い音がよく聞こえるように調整しましょう」と、藤高がメガネをぐいっと押し上げた。

翌朝、花帆は港へ向かった。昨日より一段と風が強い。桟橋の先には釣り人が数人。

花帆は船客待合所の柱に隠れて、港を見張った。

7時。7時半。7時40分、さるびあ丸が入港した。藤高のおかげで汽笛の聞こえっぷりは抜群だった。なのに決闘の気配はケの字もない。半袖短パン軍団も来ない。

7時じゃなくて1時かもしれないと思い直し、一旦、休憩することにした。花帆の警戒心はすっかり緩み、釣り人を冷やかすことにする。昨日、隣で釣っていたおじさんが、今日もいた。

「おはようございまーす」
「あれ、お姉さん、今日は釣らないの?」
「今日は散歩です」
「西風が強くて釣りづらいからね。船も着かないと思ったもん」と、おじさんは風の強さを嘆く。

あのぅ、と花帆の中のモゴモゴ部長が顔を出そうとするが、押さえつけた。
「今日、決闘があるって聞いたんですけどご存じですか。天罰らしくて」
「ん?テンバツねぇ。うーん。今日のことならテッパツじゃない?西から吹く強風を、島じゃテッパツって呼ぶから」
「え、風?じゃあ、ケットーは?」
「テッパツが吹くと船がよく欠航するから、ケッコーかな。大型客船もジェット船も来れなくなって全便欠航も珍しくないよ」
テッパツで、ゼンビンケッコー?じゃあ、じゃあ、昨日、桟橋にいたマッチョな半袖短パンの人たちは?」
「あぁ、筋トレ同好会の人だよ。みんな真面目にやってるから、ガタイいいでしょ?おじさんも最近、タヌキ腹が気になるんだよね」
おじさんの自虐は耳に届かず、花帆はあいさつもそこそこに桟橋を離れた。

勘違いも甚だしい。藤高さんにも協力してもらったのに会わせる顔がない、と思い、力ない足取りで帰路につく。しばらくうなだれて歩いていたが、筋肉モリモリ半袖短パン日焼けマッチョ軍団が、強烈な引きの大物カンパチと闘う姿を想像したら、だんだん楽しくなってきた。人間と闘うより断然いい。

「ただいまー!」
すっかり元気を取り戻した花帆は、勢いよく玄関の戸を開けた。その足で食堂に向かい、厨房に、おはようございます、と声をかける。凪子さんが湯気の立ったお味噌汁を運んできた。

「花帆ちゃん、朝からお散歩?」
アジの干物と格闘しながら、花帆がテッパツ、ゼンビンケッコーの聞き間違えについて話すと、凪子さんは「やだー」と、ころころ笑った。

「港にパトカーがいたから、てっきり事件だと思ったんです」
「あらら。パトカーは船やヘリコプターが到着する時、必ず見回りに来るのよ。あのお巡りさん、いい人なのよぉ」
「なんだー。農協の黒板にも怪しい記号が書かれてたから、それも暗号かと」
「あれね。利島としまはプロパンガスだから、ガスがなくなって交換してほしい時、黒板に名前を書いとくの。でもほら、島は同じ名字が多いから。で、家ごとに代々受け継いでる印を書いとけば、どの梅田さんかわかる、ってわけ」
「そーなんだ」
決闘なんて起こりそうにもない島の穏やかな暮らしを知り、花帆はホッと胸をなでおろした。

「そうそう。花帆ちゃん、今日のお昼はどうします?なにか作りましょうか?」
「あ、買いに行こうと思ってて」
「そーお?なら、この近くにお店があるから行ってみたら?仲良しの同級生がやってるのよ」と商店への近道を教えてくれた。

他人の敷地を通るらしいが、知り合いなので気にしなくていいと言う。ご近所さんとの信頼関係が垣間見え、こういうの、好きだな、と花帆はほっこりした。


[3] 殺人


前田商店はこぢんまりとした店構えで、入口には「営業中」の札を首からぶら下げた犬のぬいぐるみが置かれていた。

店の中は冷んやりとエアコンが効いていて、島の強い日差しで吹き出た汗が、みるみる引いていった。お店の人は見当たらない。店の奥には、模様入りの古いすりガラスをはめた引き戸があり、自宅につながっているらしくテレビの音が漏れている。

花帆はカップラーメンを手に取った。

店の人に声をかけようと奥へ進むと、ガラス戸の向こうからボソボソと話し声が聞こえてきた。

「……昨日、おっ父うを殺した」

「・・・・・!」
花帆は耳を疑った。

女の人の声だった。「琥太郎よ。あの子が、やったの」と続けて言う。

「えっ!」と絶句する声。別の女性だ。

「ひどいもんよ。手はヌルヌルするし、座布団はベタベ……」食器がカチャカチャと鳴る音に邪魔されて、会話が聞こえなくなった。

花帆は全身の血が冷えわたり、恐怖で凍りついたように立ちすくんでいた。逃げなくては。硬直した足を床から引きはがし、じりじりと後ずさりを始めた。そこへ再び、切れぎれに流れてくる声。

「……後片付け、どうするの?」
「明日、店が休みだから山へ行くわ」

ガタン!と店中に大きな音が響いた。

後ずさりしていた花帆が後ろの棚にぶつかったのだ。まずい、と焦ったが手遅れだった。奥の戸が開いておばさんが顔を出した。

「いらっしゃい」
ぞっとする話を打ち明けていた女の人と同じ声だった。

「……こんにちは」
消え入りそうな声で返事した花帆を観察するように、おばさんが目を細めた。

「……これ、ください」
びくびくしながらカップラーメンと代金をレジの台に置いた。おばさんがレジ袋に品物を入れ、おつりをくれる。花帆は目を合わせないように顔を伏せたまま店を出た。

「ありがとうございます」と後ろから追いかけてくるおばさんの声。

背筋をツーッと汗が流れた。

角を曲がり、店から見えないことを振り返って確かめた後、花帆は宿に向かって走り出した。

部屋へ駆け上がり、急いでドアを閉める。全身に鳥肌が立っていた。

どうしよう、どうしようと部屋の中を歩き回るが、どうしたらいいのか考えがまとまらない。

(凪子さんに言おうか?あかん、凪子さんと店のおばさんは友だちやから、凪子さん、絶対悲しむ。よう言わんわ)
(健太に電話しよかな?いや、仕事の真っ最中やわ。いつも私用電話は出はらへん)
(藤高さんがおるわ!あの人、えらい親切やったから、藤高さんに相談しよ!)

花帆は藁にもすがる思いでビデオカウンセリングの画面を開いた。本日の予約枠に空きがある。どうか藤高さんにあたりますように、と祈るように申し込んだ。

時間がきた。画面に映ったのは……藤高だった。

「藤高さん!」
見知った顔が現れた安心感で、体中の力が抜けていった。

「早瀬さん、こんにちは。昨日に続いて今日も僕だなんて偶然ですね。まぁ、うちは少数精鋭なので時々あることなんです」
「藤高さん!」
「はい。今日もよろしくお願いいたします。ところで昨日おっしゃってた決闘はどうなりました?」
「忘れてた……。あれは、もういいんです……」とモゴモゴ部長がまた顔を出すが、今回は見逃した。

「そうですか。調整データがフィットしたんですね。良かったです」
「全然、良くない!別の問題が起きたんです!」
「なるほど、もう少しチューニングが必要そうですね。では、状況を詳しく教えてください」
話がかみ合っていなかったが、そこは無視して、花帆は息せき切って話し出した。

「人を殺した、って聞いたんです!」
藤高がメガネの奥で目を大きく見開いた。しどろもどろで説明する花帆の話を聞き終え、しばらく考え込んでいた藤高は「なるほど」とつぶやいて、言った。

「今回は警察に行きましょう。島に警察はありますか?」
「お巡りさんがいるから駐在所はあると思う。でも、また聞き間違いかも」
また、とはどういう意味かと怪訝な顔をする藤高に、テッパツの聞き間違えをモゴモゴ部長が報告した。

「うーん。聞き間違いもあり得るか……」
藤高の冷静な声を聞いているうちに、花帆はようやく落ち着き、頭が動き出した。

「私、店のおばさんを調べてみます。凪子さんと仲のいいお友だちだから、本当に困っているんだったら、凪子さんに伝えなくちゃ」
「うーん。心配だなぁ。琥太郎って人には、くれぐれも近づかないようにしてください」
「気をつけます。そうだ、調整もお願いしていいですか?お店でもっと聞こえるようにしておかないと」
藤高は、わかりました、と店の状況を花帆から詳しく聞き出した。確か古くて大きなエアコンがあった。

「ではノイズリダクションでエアコンの雑音を低減しましょう。奥が自宅だったら、台所の換気扇の音もするかもしれませんね。それも低減できます」
藤高は頼もしい顔でメガネをぐいっと押し上げた。

その夜、不安を抱えた花帆は一向に寝つけなかった。布団の中で何度も寝返りを打っていると、窓からカリカリという音が聞こえた、気がした。そぉっとカーテンをめくると、室外機の上にシロクロがちょこんと座っていた。


「来てくれたんだ」
窓を開けるとやさしい風が花帆の頬をそっとなで、ニャッとシロクロが鳴いた。
「ねえ、おばさんのこと調べるなんて無謀かな?」
シロクロは花帆をじっと見つめた。
「健太にも、なにから話せばいいかわかんなくて、今日は連絡してないんだ」
まばたきをするシロクロ。
「家を出てくる時、変な空気になったでしょ?あれから気まずくて……。耳のこと、いつもごめんって言えばよかったのかな。いつもありがとう、なのかな。わざわざ言わなくちゃいけないのかな」
シロクロは身じろぎもせず、花帆の話を聞いていた。人と話すより猫の方が楽、と花帆は思った。

難聴になってからは、会話が苦手になった。人の話を聞き逃さないように常に気を張り詰めていた。何回も聞き返して嫌がられるのが怖くて、聞こえなくても聞こえたフリをした。シロクロはぐーっと伸びをして室外機から屋根に飛び移り、ねぐらへ帰っていった。胸の内をシンクロに明かし、花帆のとがった気持ちは、ほんの少し、まあるく和らいだ。

翌日、朝食を終えた後も花帆が部屋でぐずぐず迷っていると、玄関の開く音がした。お父さんが港から泊まり客を連れてきたようだ。「おじゃましまーす」と聞き覚えのある声がした。階段下をのぞくと、土間にメガネをかけた背の高い男性が立っていた。

藤高だった。

え!え?藤高さん?なんで、ここにいるんですか!」
花帆は階段を駆け下りた。

「あれ、早瀬さん!島にいるって利島としまだったんですか。」
ビデオで顔は合わせていたが、生の藤高は初対面だ。

「僕、明日、利島としまでメディカルリスニングプラグの無料体験・相談会をやるんで、出張で来たんです。で、なかみち荘に泊まるんですよ」
玄関先で立ち話をする二人を、お父さんが応接間に招き入れた。

ソファに座り、挨拶もそこそこに藤高が声をひそめて聞いた。
「早瀬さん、例の殺人事件、どうなりました?」
「店のおばさんは今日、山に行くはずなんです。張り込みして動きがあったら尾行しようと思ってるんだけど……」
「僕、今日は仕事がないので付き合います!」
ありがたい。一人で調べに行くのは心細かったし、ちゃんと聞き取れるかも心配だった。藤高がいればなんとかなる。

宿で車を借り、藤高は「では、行きますか!」とアクセルを踏んだ。張り切っている藤高には申し訳ないくらい、前田商店には一瞬で着く。店から離れた場所に車を停め、店と家が一つになった建物を見張った。

待っている間、花帆は凪子さんに教わった利島としまの話を語って聞かせた。島には20万本の椿があること。冬になると赤い花が咲き誇り、花が散る頃には島中で椿のじゅうたんが見られること。車は品川ナンバーだということ。小学生に人気の給食は砂糖揚げパンで、プールは海水だからめちゃくちゃ体が浮くこと。利島としま=ピラミッド説も披露した。20年ほど前にオカルト雑誌が利島は人工的に造られたピラミッドだと断定した話だ。花帆は宿のお父さんにも熱く語って聞かせたのだが、鼻でフッと笑われたので真偽のほどは想像がつく。

店のおばさんが現れた。手には草刈機と鎌、竹の熊手。鈍く光る鎌は犯行の凶器だろうか。おばさんは軽トラの荷台に道具を積み、車を発進させた。

花帆たちも後を追う。集落を出て、軽トラは利島一周道路へ入っていく。この前、花帆が島の南を目指してドライブした道だ。あたりには椿山が広がっていた。

軽トラが停まった。おばさんは荷台から道具を取り出し、椿山の中に入っていく。

花帆たちは、軽トラを追い越した先の道端に隠れるように駐車し、木の間から様子を伺った。

静かな山に、草刈機で椿の下草を刈る音がブゥィーンブゥィーンと響いていた。音が止んだと思うと、鎌で何かを切っている。それから熊手に持ち替え、刈った草をかき集めて小山をつくり、火をつけた。

「燃やしてますよ」と藤高が言った。「燃やしてますね」と花帆は答えた。

草を燃やすフリをして犯行の証拠を焼却している可能性があった。花帆と藤高は焚き火に目を凝らしたが、遠くてよく見えない。犯罪の証拠だったかもしれない白煙が薄く立ち昇り、はかなく空へと消えていった。

おばさんは道具を軽トラに積み込み、来た道を戻っていく。残った灰を調べたかったが、ここでおばさんを見失うわけにはいかなかった。

花帆たちも車をUターンさせて尾行を続けた。このまま家に帰るのだろうという予想は外れ、集落の中ほど、長い玉垣が続く場所で軽トラが再び停まった。おばさんは吸い込まれるように玉垣の間に入っていく。車を近づけると、鳥居が見えてきた。古い神社だった。

二人は玉垣に隠れておばさんを見張った。足元からは苔むした石畳が一直線に伸び、その先にある拝殿でおばさんが一心にお参りしていた。

亡き夫、おっ父うの冥福を祈っているのだろう。それとも、おそらく息子であろう琥太郎のこれからを案じているのか。

このまま黙っていたらおばさんも共犯者になってしまうのに、と花帆は心配でならない。おばさんを守るように狛犬たちが鎮座し、花帆をジロリとにらんだ。

長い祈りからおばさんが顔を上げた。拝殿を見上げ、何か口ずさんでいるようだ。

「藤高さん、聞こえます?」
「シーッ。静かに」
藤高は玉垣から身を乗り出し、耳に手をあてていた。

「ジックワ、ジックワって歌ってるようです。なんだろ、おまじないかな」
藤高の耳でもはっきりと捉えることはできないようだ。

おまじないを唱え終わったおばさんは体の向きを変え、石畳を渡ってこちらへ歩いてくる。花帆と藤高は大あわてでその場を離れ、神社の向かいにある玉垣に身を潜めた。気付かれた様子はなく、おばさんは車を発車させ、そのまま戻って家の中に姿を消した。

帰宅を見届けた二人は、車のシートにぐったりと体を沈めた。長い沈黙を破って、藤高が言った。

「僕、明日は無料体験・相談会で、明後日には帰るんですよね……」
花帆だって、おんなじだ。明後日には東京へ帰る。迷っている時間はなかった。おばさんの家に強い視線を向け、花帆は腹をくくった。

「藤高さん。おばさんと話をしましょう」
隣を見ると、藤高も固く結んだ口元に決意の色を浮かべ、力強くうなずいた。

前田商店は昨日と全く変わりなく静まり返っていた。いや、昨日は耳についたエアコンの音が、今日はさほど気にならない。メディカルリスニングプラグでおばさんの声もよく聞こえるはずだ。

花帆が「こんにちは」と大きな声をかけると、「はーい」とおばさんが奥から顔をのぞかせた。

「あぁ、昨日も店に来てくれましたよね?」
「なかみち荘に泊まってるんです」
「あら、観光の人?移住してきた人かと思って、ずっと名前を思い出そうとしてたんだけど、私ったらバカね。凪ちゃん、おしゃべりさんだから楽しいでしょ?」と、おばさんはにっこり笑った。

「ええ、凪子さんには良くしてもらって。おばさんは仲のいい同級生だと聞きました。だから、お話したいと思って来たんです……」
おばさんは訝しげにこっちを見ている。

花帆はふぅっと短く息を吐き、切り出した。

「昨日、私、聞いたんです。おばさんが、おっ父を殺した、って話してるのを」

「おっとう?」

「やったのは琥太郎さんなんですよね」
と畳みかけるように藤高が問い詰めた。

「こたろうが?」
おばさんは眉をひそめて花帆と藤高をじろっと見据えた。

「殺した?」
否定する気だ。

「おばさんは凪子さんの大切なお友だちだから、私たち、力になりたいんです」
「いったい、なんの話?」
「手がヌルヌルになったんですよね?座布団もベタベタだって」

おばさんは目をパチクリとさせた。それからハッと思い出した顔をして、突然クツクツと笑い出す。しまいにはおなかを押さえて笑い転げた。

「おばさん?」

正気を失って錯乱したのかと、花帆と藤高はハラハラと見守った。ようやく笑いやんだおばさんが、涙を拭きながら言った。
「おっ父うを殺した、じゃなくて、納豆なっとうをこぼした、って言ったのよ」

納豆!?

花帆と藤高は顔を見合わせた。おばさんは、まだ笑いを含んだ声で店の奥に呼びかけた。

コタロー、おいで!」

バウッと返事をして、大きなゴールデンレトリバーが飛び出してきた。

「あ。この前、港にいた犬!」
花帆は、大型客船から犬を連れて降りてきた男性の姿を思い出した。

「この子ね、納豆が大好物なの。納豆あげると興奮して、もう大変。この前も目を離したすきに食卓の納豆に手を出しちゃって、手も口も座布団も納豆でネバネバにしたのよね、コタロー?」

コタローは反省のそぶりも見せず、花帆と藤高の周りをくるくる回ってはしゃいでいた。花帆は張り詰めていた緊張の糸がプチンと切れ、ふふふふふふ、と笑い声が口からこぼれた。藤高は苦笑いしていたが、表情は晴れやかだった。大いなる勘違いだったけれど、事件は一件落着だ。おばさんは楽しそうで、おじさんは会ってないけどちゃんと生きていて、コタローは尻尾をぶんぶん振って幸せそうだった。

[4] 出発


島で過ごす最後の夜、花帆はやり残していたことを思い出した。ホシだ。星を全く見ていなかった。夜空を見上げるのを忘れていた。

お父さんに懐中電灯を借り、花帆は夜道を一人歩く。歩いている人なんていないのに、後ろを振り返り、振り返りして歩いた。

静かすぎて怖いほどだ。ポケットからスマホを取り出した。画面の上で指が迷う。思いきって押した。

プルルル、プルルル。スマホが東京の健太に呼びかけた。

「はい」懐かしい声。

「あのね。今ね。星を見に行こうと思って一人で歩いてるの。真っ暗なの。すっごい怖いの」
ここ数日のご無沙汰を詫びようと頭では思っていたのに、口が勝手にしゃべっていた。

「だーれもいなくて、しーんとしてて、怖いから、健太、ずっと話してて?」

そう言った途端、草むらがガサガサと揺れ、「ごは〜〜〜〜ん」と地の底を這うような低いうなり声。

恐怖ですくむ花帆に、電話口で健太が大きな声で言った。

妖怪!

うきゃーと声にならない声をあげ、金縛りにあったように体が硬直した花帆の前に、草むらからひょいっと姿を見せたのは、シロクロだった。「ごは〜〜ん」と鳴きながら花帆の足にすり寄ってくる。なんだー、お前だったんだ、と呪縛が解けた。

健太の声が聞こえてきた。
了解、って言ったんだけど、大丈夫?なんかあった?」
「もう平気。かわいい子が一緒にいてくれるから。白黒なの」
「あ、猫だろ?利島としまはいっぱい猫がいる、って見たよ」
花帆が留守の間、健太は利島としまについて調べていたのだろう。なんだ、もっと早く電話すればよかった、と花帆は意地を張っていた自分がおかしくなった。

電灯がスポットライトのように道を照らし、明かりだまりの先は真っ暗な闇だった。眼下には桟橋の灯台が見えた。あそこまで行こうと思っていたが、もう、ここでいいかな、と花帆は空を見上げた。

圧巻の星空だった。銀色の砂を振りまいたように無数の光が空に散りばめられていた。

「すごいよ、健太。すごいよ」
それきり言葉を失って、花帆はずっと夜空を見上げていた。

健太が耳元で何かささやいた。

「ん?もう少し大きな声で言ってくれる?」

あ、言えた。最近ずっと飲み込んでいた言葉がスルッと言えた。

再び、健太の声がした。

「月が綺麗だね」

ふふふ、文豪かーい!夏目漱石が「I LoveYou」を「月が綺麗ですね」と訳したのは俗説だけど、花帆はそれでもうれしかった。満天の星空が広がるこの場所から、あいにく月は見えない。

それでも花帆は言った。

「月が綺麗やね」

東京と利島としまの空はつながっていて、月はひとつで、星は無数で、花帆が会いたい人はただ1人だった。



島を離れる日、帰りは利島としまから大島までヘリに乗るという藤高を、ヘリポートまで見送ることにした。昨日の無料体験・相談会は大盛況で、前田商店のおばさんの姿も来てくれたという。藤高が背負っているリュックからは、おばさんが「椿山で採ってきたから持って帰れ」と大量にビニール袋に入れてくれた明日葉が飛び出していた。

尾行したあの日、おばさんは「きっぱらい」と呼ばれる椿山の下草刈りに行っていたのだという。利島としまは全国有数の椿油の産地で、おばさんの家も椿の兼業農家だった。秋になると完熟して落ちた実を拾い、中の種を絞って油をとる。落ちた実が見えやすいように、収穫までに何度かきっぱらいをするらしい焚き火は椿農家に認められている野焼きで、草を焼いていただけだった。

「神社に寄ってもいいですか?」と藤高が言った。昨日、おばさんがお参りしていた神社は、恵比須さんチの息子さんをまつ阿豆佐和気命あずさわけのみこと神社だった。

おばさんに、神社で何か歌っていなかったかと尋ねると、「ジックワ火の歌」だと教えてくれた。大みそかに神社で焚き火を囲んで歌うのだという。

♪じっくは じっくは にじっくは
♪ことしの としは よいとしで

「十貫 十貫 二十貫 今年の年は よい年で、って歌ってるんです。最初しか覚えてないけど、今年もよい年って喜んでるから、いい歌でしょ?つい口ずさんじゃう」

花帆と藤高は並んで阿豆佐和気命あずさわけのみこと神社の拝殿に手を合わせた。頭の中で「今年の年はよい年で」が繰り返し流れていた。

神社を出て坂道をゆるゆると下っていく。そこから見下ろす利島としまの海は、青い水墨画のように見え、遠くの波間に島々がプカリと浮かんでいた。

「宿のお父さんに教えてもらったんだけど、あの辺かな?こっちかな?富士山が見えるんですって」
「富士山?どこだろ、全然わかんないですね」
「心のきれいな人だけに見えるってお父さんが言ってた」
「なんだ、そりゃ」と藤高は笑い、カメラで撮ったら見えるかな?とスマホを取り出し、またポケットにしまった。

「撮らないんですか?」
「……僕、写真撮るの、好きなんです。旅先にも必ずカメラを持っていって。最近はスマホですけどね。でも気付いたら島にいる間、1枚も撮りませんでした」
花帆は黙って耳を傾けた。

「僕、北関東の田舎で育ったんです。山があって川があって自然しかなくて。祖母と一緒に住んでいて、フィッターになったのも祖母の補聴器をつくりに街まで付き添ったのがきっかけみたいなもんです。おばあちゃん子だったから、大学で下宿してる時もしょっちゅう家に帰って、おばあちゃんの写真いっぱい撮って」でも、と藤高は続けた。

「最近、撮った写真を見返すことがほとんどなくて。なのに頭の中には、撮影したはずのないおばあちゃんの写真があるんです。井戸でスイカを冷やしてくれる姿とか、畑仕事する丸い背中とか。記録しない方が記憶に残ることもあるんでしょうね」

花帆にも忘れられない記憶があった。「ため息つくと、幸せが逃げていくでぇ。笑っていこら」が口癖だったおじいちゃん。古武士こぶしみたいな風貌だけど、学校の先生で子どもが大好きだったおじいちゃん。東京へ帰る日は一段と渋い顔して、花帆が見えなくなるまで見送ってくれたおじいちゃん。

でも、だんだん耳が悪くなり、大きな声で話しかけても聞こえなくなり、テレビを見なくなり、ラジオも聞かなくなり、誰とも話さなくなり、ベッドから離れなくなったおじいちゃん。

歳をとったら仕方ないのかな、と大きくなった花帆は思い、遊びに行っても寝室に顔を出して「おじいちゃん、来たよ」と挨拶するだけで済ませていた。

祖父が亡くなった頃、花帆は東京の大学に入学し、一人暮らしの慣れない環境で疲弊していた。

大学1年生で突発性難聴を発症した時、花帆はようやく祖父の気持ちを理解した。おじいちゃんは、聞こえないから、話さなくなったんだと気付いた。
聞くことに疲れて、話すことをあきらめたんだと知った。

「藤高さん。私ね、難聴になってから一人で過ごすことが増えたんです」
藤高はコクリとうなずいた。

「大学で発症して、声かけられたのに気付かないでいたら、無視した!って嫌われて……。声が聞き取りにくい人に愛想笑いで接してたら、全然聞いてない!って怒られて……」

「後ろから話しかけられてもわかりませんよね。雨の日だって聞こえにくい。大勢でのおしゃべりも、飲み会の席も苦手になりますよね」

「会社でも雑談に入っていけなくて……。みんなはキーボード打ちながらでも話せるでしょ?私は仕事の手を止めて、話に集中しないと聞こえない」

「……ええ」

「ちょっと疲れちゃったんです」

海辺のヘリポートが見えてきた。

「それで、うちのメディカルリスニングプラグを使おうと思ってくれたんですか?」
「そう!ウジウジしてるの、嫌になっちゃったの。あきらめたくない、って思ったの。変わろう、って思ったの」

「うれしいです。僕、早瀬さんみたいな人を増やしたくて、今の職場に転職してきたから」
「どういうこと?」
「僕の田舎、補聴器の店が全然なくて。祖母もだいぶ聞こえなくなってから、やっと重い腰をあげて遠くまで買いに行ったんです。あの時、オンラインでフィッティングできるメディカルリスニングプラグがあったら、祖母ももっと早く、もっと気軽に補聴器を使ってたと思う。僕はそういう人を助けたいんです」

「この島も補聴器、売ってないもんね」
「船に乗って大島か東京まで買いに行くそうです。調整で何回も通わないといけないから大変だ、って」
「藤高さんなら、いつでも呼び出せるのにね?」
「やだなぁ。違うフィッターが担当する時もありますよ」


搭乗前の保安検査を始めます、とヘリポートのスタッフが大きな声で告げていた。

藤高は花帆に向かって「捜査、お疲れさまでした!」とニヤリと笑った。「ホシは挙げられなかったけどね」と花帆もニヤリと笑い返した。

「それでは、早瀬さん。調整のご希望がございましたら、またいつでもお申し込みください」
フィッターの顔に戻った藤高がメガネをぐいっと押し上げると、保安検査室のドアが閉まった。

花帆は外に出て、メディカルリスニングプラグを耳から外した。ヘリが爆音を連れてやってきて、藤高を乗せて爆音とともに飛んでいった。

上空から富士山は見えただろうか。藤高さん、心にしっかり焼き付けてるかな、と思いながら花帆は前を向いて歩き出した。

出航時間が近づき、お父さんと凪子さんが港まで送ってくれた。

「お父さん、凪子さん、本当にお世話になりました」
「やだー。娘を嫁がせる母みたいじゃなーい。泣いちゃうわぁ」
「なかみち荘のこと、実家だと思って、また遊びに来ます」
「お父さんも嫁ぐ娘に贈る言葉はないのー?」

「もみあげは刈った?」

お父さんの言葉に、え?と一瞬驚いて、笑ってごまかそうとしたが、そうだ、私は変わるんだ、と花帆はメディカルリスニングプラグを着けて問い返した。

「もみあげって、なんですか?」
「やーだ。お土産は買った?ってお父さん言ったのよね?」
弾けるような三人の笑い声が西風に乗って広がっていった。

ボーーーッと汽笛が鳴り響き、船が出航する。元いた場所に帰るというより、新しい場所へ向かう旅立ちのようだ、と花帆は思った。

これから、メディカルリスニングプラグを着けて一番会いたかった人に会いにいく。聞きたいこと、話したいことがたくさんあった。

明日からは会社にだって着けていく。聞こえなかったら「もう一度言ってくれませんか?」とためらわずに伝えよう。苦手な音やシチュエーションは「苦手なんです」と勇気を持って伝えよう。

大丈夫、メディカルリスニングプラグが味方になってくれる。

♪じっくは じっくは にじっくは
♪ことしの としは よいとしで

頭の中で島の歌が聞こえる。今年はきっといい年になる。次第に遠ざかっていく利島に、花帆は大きく手を振った。



「出発進行!いってきます!」


※この作品はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

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