海外の資本が入って何か変わった?とよく聞かれる話
「海外の資本が入って何か変わった?」とよく聞かれる。
ここは奈良県天理市。
西名阪自動車道天理インターチェンジからほどなく、豊かな緑の木々が生い茂る丘に、白く映える四角い建物群が見えてくる。
シャープ総合開発センターだ。
今から約1500年前に築造された“東大寺山古墳”を目の前に眺める場所に
大きめの建物が十数棟と、その周囲にいくつか直立している。
ここにひっそりとたたずむ、“シャープミュージアム”で、
国内外から来訪くださる様々なゲストを110年の時間旅行へとご案内するのが私の日常である。
このnoteでは、ゲストとの時間旅行の一コマの奥行を
感じていただければ幸せです。
ギラギラと外は眩しい太陽が照りつける夏の日、野球帽にTシャツ×短パン姿の、この季節によく見かける感じの少年がロビーに入ってきた。
小学3年生くらい?
うるうるとした目が印象的だった。
・・・ん? 彼の時間が止まった?
「ごめんなさい。やっとここに来れて感激しているんです。」
ご両親が少年の様子を解説してくれた。
なぜかSHARPは一部の小学生の男の子に人気がある(ようだ。と、薄々感じている。)
毎年この季節になるとこの風物詩を思い出す。
「どうしてSHARPが好きなの?」ご家族が聞いても、少年は恥ずかしそうに大きく息をするだけ。
答えはない。
たぶん、少年にもその答えはわからない。表現できないほど好きなのだ(と思う)。
そんな少年たちは毎年成長していき、やがてSHARPが好きだったことを忘れてしまうかもしれない。
あるいは20年後、研究員となった少年は、この敷地のどこか研究室で特許を書いているかもしれない。
今この話を読んでいるあなたが、もし、あの時の少年だったことを思い出したら、教えてほしい。
なぜ、あの頃あんなにSHARPが好きだったの? 今はどうですか?
このセンターができたのは1970年(昭和45年)
先人たちの話によると、当時、このあたりは深い緑の樹木に覆われた美しい丘であったとのこと。
建設現場からは、鉄剣などいくつもの出土品が発見された。
1500年ほど前に、この地域を治めていた豪族“和邇(わに)氏”の古墳群であることがわかった。
センターのほど近くにある前方後円墳(東大寺山古墳)。
坂を下っていくと、和邇下神社。
ここに祀られている。
この歴史ある地で、古墳を保存しながら未来を見据えた研究開発を行うために建設された施設である。
そしてこの地で、1970年(昭和45年)に半導体の研究開発、生産と、人材開発、育成がスタートした。
10年後、1980年(昭和55年)シャープ創業者、早川徳次がこの世を去った。
たくさんの功績を残して。
その遺徳を偲び、後世に伝えようと、
1981年(昭和56年)に開設したのがシャープ歴史ホール。
続いて研究成果を一部のステークホルダーにのみ紹介する目的で開設したのが技術ホール。
これらの施設は社会貢献活動の一環として広く一般公開するようになった。
そして
2012年(平成24年)にシャープミュージアム(歴史館・技術館)へと改名した。
ピーク時には年間15,000人から20,000人の来訪者を、10名の説明員が緻密なシフトを組んでアテンドした。
このシャープミュージアムで、先の少年たちをはじめ、国内外からの来訪者をお迎えするのが私の日常である。
もともと小学生のアテンドは苦手だった。
入社するとまず1カ月間、大学ノート2冊分ほどにまとめられた日本語説明のマニュアルをみっちり暗記するよう指導を受けた。
ハッキリと思い出せないが、多分ワクワクしながらページをめくる。
ワクワクするのは昔から得意だ。
最初のページは・・・
この公開施設のコンセプト、全体構成のご紹介。
全て、しっとりとした「ございます調」だ。
茜色の絨毯にオフホワイトマーブル(よく見ると化石も潜んでいる天然大理石)の壁とのコントラストが美しいこの企業博物館のつくりに相応しい日本語。
早口でテンポよくしゃべるのはきっと似合わない。
映像でしか見たことのない、背筋の伸びた上流階級の人が
上品な微笑みを保ったままゆったりと話すのがいい。
(なんか新鮮。新しく始まる予感はいつもワクワクする)
「はい、ではこの席に座って、このまま全て暗記してください。現場に行くと気が散るから。ここで覚えて。」
白い机上に黒い活字をびっしり載せた白い紙。
なるほど、これは集中するしかない。
ワクワクしている場合ではない。
苦手な暗記、活字の列をただひたすら暗記することに果敢に挑戦した。
・・・集中が途切れた・・・
「どれだけ覚えたか、現場でテストしようか。」
映画俳優のようにダンディーな課長。
ピンと背筋を伸ばした高貴な(感じの)歩き姿で現場へ向かう。
三歩後方を保ったまま、私も現場へ向かう。
「はい、ではエントランスからはじめて。
立ち姿はこう。
背筋を伸ばして。
かかとをつける。
足先は少しずらして。
右手は下。
お客様を攻撃しませんよう、右手は左手で抑えています。という意味ね。
顎を引いて。
口角を上げる。」
緊張感マックスの準備は整った。
さっき必死で頭に詰め込んだ活字の行列が爆発崩壊しそうだ。
深呼吸をして、活字の列を最初の文字から取り出す。
「本日はようこそ・・・・(大丈夫だ。落ち着こう。)
・・・昭和57年にちょうど創業70周年を迎えました。」
「違うなー。 ”昭和57年に” じゃなくて、”昭和”57年で“
”迎えました“ じゃなくて、”迎えております“ はい、最初から。」
「本日 は ようこそ・・・・(大丈夫じゃない。声が震える。)
・・・昭和57年 で ちょうど創業70周年を迎え て おります。これをひ・」
「だめ。 “迎えております。それで、これをひとつの” “それで”が抜けた。やり直し。最初から。」
ワクワクが一気に戸惑いに変わったのは、周囲にも伝わったに違いない。
びくびくして初日は、いや、次の日も、またその次の日も。
エントランスのコンセプトの語りから先には進めなかった。
説明マニュアルは完璧な台本。
一言一句、“て・に・を・は” も、言い違えることは許されない。
これを乗り越えねば、社会人になれない・・・
・・・と、乗り越えきれないうちに、給料日が来た。
乗り越えていないのに、お給料をいただいた。
思えば、まだ何も世の中の役に立っていないのに、いただいたお給料はどこからやってきたのだろう。
それどころか、役に立てない自分を根気強く指導くださった課長、先輩の時間、その人件費はどこからやってきたのだろう。
当時の私は、そんな疑問を抱くことさえなかった。
・・・2回目の給料日を迎える頃には、何とかお客様に「ございます調」できちんとご説明ができるようになっていた(と思う)。
元来田舎訛りのあった(らしい)私は、”電卓”というシンプルな単語を正しく発声するのに1週間はかかったけれど。
電卓(デンタク)は、どの音も強調しない「平板」で発声するのが標準である。
しかし私は、デ ンタクと。
すなわち最初の「デ」を強調する「頭高」のアクセントで発声していた。
生まれ育った鹿児島のアクセントを持ちながら、社会人をスタートした関西のアクセントと、仕事で使う標準語。
3種のアクセントが混ざり、使い分けにしばらく苦しんだ。
今でも机上には、NHK日本語発音アクセント辞典。
マインドトーク(話し方)のご指導をしてくださった先生に教えていただいた、このバイブルが仕事のお守りだ。
「ございます調」がすっかり身についたころ、ひと山超えればその先にはさらに高い山がそびえたつ。
秋は遠足のシーズンだ。
地元の小学生はクラス毎に説明員がアテンドする。小学生から見れば、新人も経験豊富な先輩たちも同じだ。
そして、すっかり身についてしまった「ございます調」は手ごわい。
すっかり身についてしまった「ぜい肉」みたいに手ごわい。
何日も前から楽しみにしていた(よね?きっと)遠足も最後の行程を終え、帰りのバスに乗り込む白い帽子姿の小学生。
「バイバーイ。また来るねー。」
満面の笑顔で元気に手を振る。(すっかり打ち解けたみたいだね) バスの窓からも、自分たちのクラスをアテンドしてくれた説明員をみつけて元気いっぱい手を振っている。
けれども私がアテンドしたクラスの子たちはお行儀よく
「ありがとうございました」と静かにお辞儀をしてバスに乗り込む。
バスの窓越しに会釈してくれる。
盛大に手を振ってくれるのではなくて、上品な会釈でお別れ。
(現代風の言葉で言えば…)
心のソーシャルディスタンス?
最後まで「ございます調」を適切に変換できなかった60分は、小学生に不必要な緊張感をもたせたのではないだろうか。
以来、この季節が来るたびにトラウマみたいに苦手意識が増大していった。
小学生の遠足がシーズンオフの期間は大丈夫。
充分叩き込んだ「ございます調」で、お客様をアテンドする。
取引先企業、高い学習意欲を持つ自治体の中高年層のグループや様々な公共団体、投資家・・・
昨今「海外の資本が入って何か変わった?」 とよく聞かれるようになった。
2016年(平成28年)。
シャープは、鴻海精密工業股份有限公司との戦略的提携を発表した。
鴻海精密工業股份有限公司他3社を割当先とする約3,888億円の新株式を発行。
鴻海科技集團の副総裁がシャープ株式会社の社長に就任し、新しい経営体制をスタートした。
明治時代に生まれた早川徳次が18歳で立ち上げたこの会社が海外資本で存続する。
大きな組織の一社員に過ぎない私の心底も、不安や心配や希望が入り乱れた。
かつて創業100周年を迎えた2012年(平成24年)以降には、「100年続く日本の企業に学ぼう」という海外からのツアー訪問先にも選定され、様々な企業人に囲まれてシャープのあゆみを語るこの仕事に誇りを覚えたことが思い出された。
社内でも、ある社員が言っていた。
「仕事に行き詰ったらこのミュージアムに来る。ここにはうまくやるヒントがあるから。」
歴代社長のひとりは、ある日予告なくミュージアムに立ち寄りひとまわりすると帰り際の背中越しにつぶやいた。
「やっぱりシャープは凄いな」
なぜか少し淋しげだったような気がする。
それからしばらく、巷で「シャープ」という固有名詞を取り上げる活字や音声媒体には「経営再建中の」という修飾語がついた。
「業績不振の」と形容されていたシャープに鴻海精密工業の資本が入り、「経営再建」の行方が注目された。
直ちに、新しい仕事の指示が下りてきた。新規事業に関する資料の英訳作業だ。
「新しいことが始まった!」英訳作業をしながら、これから始まる事業プランを知る。
私の中の高揚感が沸々と湧いてきた。
鴻海精密工業は世界最大手のEMS(電子機器受託製造サービス)企業である。
この強大な企業との戦略的提携スタートの翌2017年(平成29年)には、
従来この目に見えていた世の中の景色ががらりと変わった。
鴻海精密工業が本社をおく台湾には、「春節」と言って旧正月を祝う文化がある。
旧正月は月の周期を基にした暦上の新しい1年の始まり。ゆえに、太陽の周期を基にした太陽暦で考えると、旧正月の日は毎年変わる。
2017年の春節は1月28日。
その前夜1月27日~2月1日の春節連休期間中に、鴻海精密工業の企業ブランドであるFOXCONNグループの祝祭が、東シナ海を隔てた台湾の地で盛大に開催された。
もはや他人事ではなく、この私にも新しい仕事が入る。
祝祭の会場に出張ミュージアムを設営し、シャープのことを良く知ってもらおうというのだ。
シャープミュージアム収蔵品の中から20点ほどを選定し慌ただしく指定の場所へと送りこむと、自分自身も慌ただしく荷造りして
― 珍道中(の話は省略)を経て -
祝祭会場に到着した。
そこはCEATEC(シーテック)*で何度か行った、幕張メッセの1ホールを貸切ったような圧倒的なスケールだ。
*国内最大規模のIoTの展示会
天井は天空のように高い。
いや、どうやらこのフロアだけではない。
真っ白い壁面に並んだ8Kモニタには上下階で行われる抽選会のリハーサルが映し出された。
さすがにワクワクを通り越して、異次元の世界を観ているような宙に浮いた感覚になる。
明日から始まる祝祭イベントの会場設営の最中だった。
案内されたフロアの右手には巨大なFOXCONNのロゴ。鮮やかな青色。
そして左手には巨大なSHARPのロゴ。もちろん鮮やかな赤いロゴだ。
2つのブランドが互いを尊重し合うように並んで、ここにやって来る人々を迎え入れる。
ここにたどり着くまでの珍道中の間は、言いようのない不安でいっぱいだったこともすっかり忘れて、
もしやシャープは、思っていた以上に歓迎されているのではないか。という気がした。
そして5-6人ほどのスタッフを紹介された。
シャープの展示設営を手伝ってもらえるようだ。
いくらか日本語が通じる人と、いくらか英語がわかる人と、あとは・・・?
にわか学習で仕入れてきた中国語で挨拶してみる。
“请多多关照”。
(なんとか通じているようだ!)
この間にも会場に運び込まれた大小の積み荷の開梱作業が始まった。
日本から送り出した出張ミュージアムの展示品も首尾よく届いたようだ。
白いスタンドに透明なケースを載せたいくつもの展示台が用意されていた。現地で用意して待っていてくれたのだ。
その一つに日本から送り込んだ早川式金属繰出鉛筆を展示してみる。
シャープの創業者、早川徳次が微細な金属加工で芯を繰り出す構造を考案して実用新案権を取得し、その後社名の由来となったシャープペンシルだ。
展示スタンドの足元にあるコンセントを差すと明かりが灯り、金属製の繰出鉛筆の彫刻が立体的に輝いて見えた。
と同時に、透明なケースに残っていた指紋も目立つ。
(…しまった。雑巾持ってくればよかった。)
しかたなく、ポケットから小さいハンカチを取り出しキュッキュッと拭くと、先のスタッフが皆、怪訝そうな顔をしていた。
いくつもあるショーケースたち。
どれもその表面には指紋やくもりがあちこちについていた。
それなのに彼らは皆呆然としている。
日本語がわかるスタッフに、
「ほら、こちらから観ると汚れていますよね。見えますか? ゲストに見ていただきたいのはケースの汚れではなく、展示史料です。きれいにしなくては。」と伝えると、
彼はポケットから小さめのスマートフォンを取り出し、SNSでチャットを始めた。
すると他のスタッフがきれいな雑巾を届けに来てくれた。
(彼らは必要だと理解し納得すれば、SNSでリアルタイムに連絡を取り合い、迅速に対応してくれる。)
みんなで手分けしてキュッキュッと汚れたケースを拭き始め、展示が整ってみると山積みだった梱包も片付けられて、シャープブースには美しい竹や桜があしらわれた庭のような、“和”の演出がいつの間にか施されていた。
明日からこのブースを訪れるFOXCONNグループの人に、私がシャープの生い立ちを紹介する。
今朝、初めて紹介されたスタッフの人たちと、最初はぎこちなく、徐々に気持ちが通じるようになって、明日へのスタンバイを一緒に確認することができた。
心地よい一体感。皆清々しい笑顔だった。
展示の準備が整った頃には、外はすっかり暗くなっていた。
寝不足気味で到着した翌朝の祝祭会場。
サプライズが待っていた。
あでやかな振り袖姿の女性が静々と和服を着こなした美しい歩き方でこちらへ来てくれた。
“Fujiwara-san , good morning!”
昨日一緒にキュッ、キュッとショーケースを磨いてくれたスタッフの一人ではないか。
長い髪をアップにして、派手過ぎず艶やかなメイクも、立ち居振る舞いも完ぺきに美しい。
本当によく似合う。
はにかみながら嬉しそうに、日本人の先生に指導してもらったのだ、と教えてくれた。
彼女は私の手をとり、会場内を案内してくれた。
同じように、ところどころで出会う振り袖姿の友人たちを紹介してくれた。
皆、FOXCONNグループの社員だという。
寮に住み、仕事をしながら会社の奨学金で短期大学に通っているのだと。
会社にとても感謝していると話してくれた。
そろそろ別フロアで盛大に行われた抽選会が終わったのだろう。
シャープブースに2人、3人、10人・・と、人々が集まって来た。
ある一定の年代層以上は日本語も通じるが、総じて若年層には英語の方が通じるようだ。
相手に伝わっているか、このブースを訪問してくださる人の表情を確認しながら、シャープの生い立ちを紹介する。
初めのうちは「あなたはシャープの人?」「日本からよく来てくれた」と、歓迎してくれる人もあったが、そのうち「何を言っているのかわからん」というようなジェスチャーをしてしかめ面で立ち去る人も少なからずあり、
己の力不足を知ることになる。
腹の底の勇気を振り絞って、覚えてきた中国語を絞り出してみた。
「我介绍一下夏普公司的历史。夏普公司的创始人早川徳次・・・(“シャープの歴史を少しご紹介します。シャープ創業者 早川徳次は・・・” うわっ、発明考案ってなんだっけ・・いきなりつまずいた)Sorry, he invented the mechanical pencil,・・・」
すると説明を聞いていた人だかりの向こうの方から声が聞こえてきた。
「发明了」「发明了」
(腹の底の勇気を振り絞る私を応援してくれている!)
「Oh----right, right! 他发明了自动铅笔(”彼は繰り出し鉛筆を発明考案・・・”」
中国語の面白いところは「母音+子音」の組み合わせが同じでも、「声調」の違いによって、全く異なる意味になるところだ。
概ね4種の声調の使い分けがあり、「四声」と呼ばれている。
にわか学習で東シナ海を渡ってきた私は、深く考えず現地の人の声調をそのままリピートすることで一連の展示ゾーンを繰り返し説明しているうちに、“これ、案外イケてるな”と妙な自信がついてきた。
気がつけばシャープブースには人がびっしり集まって、ひと巡り説明するごとに盛大な拍手で称えてもらい、その様子が撮影されたり握手を求められたりマイクが向けられインタビューされたり、あるいは「Good job!」と、タピオカミルクを提供してもらったり・・・
すっかり有頂天という夢のような一日に転じた。
台湾の人は皆そうなのか、何とか頑張ろうと踏ん張る人を精いっぱい応援する文化なのだろう(と肌で感じた)。
再び東シナ海を渡って戻ってくると、それからは毎日のようにFOXCONNグループの社員、取引先、販売会社の人々やその家族をシャープミュージアムにお迎えする日が続いた。
台湾の祝祭イベントで観客の皆さんに教えてもらった中国語で出迎えると、初対面の来訪者ともその距離が近くなり、一向に上達しない中国語でも、英語でも、日本語でもかまわない。それなりに会話が弾んだ。
「1980から1990年か。この頃かな、シャープの電子レンジはもう音声で何か話してたよね?」
「あー、そうそう、だけどあれは、試作品だったんじゃないかな。」
「おーそうだったかな・・」
このシャープミュージアムを60分でぐるりと巡る100年余の時間旅行の中で、彼らの誰もがそれぞれの思い出の中にシャープとの接点があったことに気づき、互いに懐かしんだり、今こうして共にSHARPという名につながっていることを喜んでいた。
私自身もそれまでに、鴻海科技集團や、FOXCONN、また、その先の取引先や販売会社からの来訪者を何度もこのミュージアムでアテンドしたものだが、その頃はシャープがこの企業団体の傘下に入ることになるとは全く想像していなかった。
2017年が暮れようとしていた頃、経営状況回復のため全社的に業務運営の構造改革を推し進めていた会社方針により、翌2018年(平成30年)4月に大きな転換期を迎えることになった。
ミュージアムを有料化することになった。
内心にわかに受け入れ難かった。
それまではどんな見学者も無料でお迎えし、60分、あるいは180分に及ぶこともあったが、終始笑顔で応対するのが当たり前だった。
幹線道路沿いに位置するこのミュージアムへは、もしやトイレ休憩がわりかもしれないが、折角到着したのにバスを降りると見学ツアーからは早々に抜け出してロビーでお昼寝の人や、世間話をしてまたバスに乗り込む観光客の姿もあった。
だから、4月以降のツアーを予約されていた団体には、有料となることを早く伝えることが先決だった。
条件が変わるのだから、予約の半分はキャンセルを余儀なくされた。
予約団体への連絡の次に、ホームページはじめ様々な媒体で紹介されていた
「無料一般公開」の文言を、
「入館料:一般1,000円/人、小中学生300円/人、・・・」と修正いただくよう、手を尽くして可能な限り方々へお願いした。
しばらくして、これまでに利用されたことの無い、新規の団体、旅行会社、教育機関等から予約が入るようになった。
世の中で、風の向きが変わったのだろうか?
お金を払い、時間を使って、遠方からここまで来訪いただける、このミュージアムの真の価値とは何だろう?
一度来訪されたあと、別の人を連れてまた来られるケースも少なからずある。
私たちは、来訪者のご到着時のつぶやきと、ミュージアムをご案内した60分後のつぶやきを聞き漏らさないよう、耳を傾けた。
すると、ご到着時のつぶやきで最も多いのは
「ここ、いつからあった?」
「こういう公開施設があることを知らなかった。」
ご到着から60分後、ミュージアム出口で最も多いつぶやきは
「勉強になった」「面白かった」
「来てよかった」「家族にも/部下にも/学生にも見せたい」であった。
PR不足で認知度が低いけれど、
「勉強になること」にはお金を払い、時間を使って、はるばる遠方からも来て下さるのだ。
これがわかってからは、自信をもってPRできるようになったし、何よりここまで来てくださった見学者には、「勉強になった。来てよかった。」と思ってもらえる情報を提供しよう。と日々考え、従来に増して実行するようになった。
シャープミュージアムを訪れる人に、驚いてもらいたい、ここに来なければ知らなかったこと・・・驚き・発見・発想につながるヒント・ワクワク・・・をたくさん持ち帰ってもらいたいから。
小学生、中学生には、学校で学ぶことができる「幸せ」に気づいてほしいと思う。
シャープ創業者 早川徳次は、実の両親を病気で早くに亡くし、養子先からは小学校1年生しか行くことができなかった。
そののちは住み込みで金属加工の見習いに励み、読み書き計算よりも金属加工の技を身につけ18歳で、ベルトを締める金属製の尾錠(バックル)を考案、実用新案を取得して独立起業する。
今から110年前、1912年(大正元年)9月15日のことであった。
苦難を乗り越え続けた企業家、早川徳次の考え方、決断、行動の物語には、現代の人を勇気づける力がある。
児童生徒ひとりひとりの大事な学びの機会をシャープミュージアムに託してくださる60分足らずの時間旅行。
1分でも無駄にしたくない。
だから意図的に問いかけて、自分ごととして考えてもらう間をつくる。
・・・この時、早川さんはどうしたと思う?
もしもあなたが早川さんだったらどの方法を選ぶかな?
資源の少ないこの国で、先人たちが知恵を出し、工夫を凝らして豊かなくらしを築いてきた尊い歴史に気づき、学校や日常で学ぶことの意味を考える機会にしてほしいと思う。
真剣に向き合うほど、児童生徒たちは真剣に受け取ってくれる。
それは、意図して提供する気づきの瞬間、発見の瞬間に瞬きもせずキリっと整う彼らの一瞬の表情の変化に垣間見る達成感だ。
「鴻海の資本が入って、何か変わった?」とよく聞かれる。
私は変わった。
あんなに苦手だった小学生。
今は彼らが素直に見せてくれる、あの気づきの瞬間に出会うのが極上の喜びとなった。
明治生まれの早川徳次が18歳で立ち上げたこの会社の、危機を乗り越え続けてきた110年。
取り巻く環境の変化にあって業績不振に陥るも海外資本で存続する。
存続する企業なら、真の価値は何なのか、社員全員が、自分の仕事に価値はあるのか、企業ならば操業し続ける資金を得ることに果たして貢献しているのか、と、真剣に考えたはずだ。
無料で一般公開することが社会貢献だとされて来たであろうこのミュージアム。
有料化することで、お金と時間をくださる見学者に提供すべき真の価値は何なのだろうと真摯に考え抜いて、我々スタッフのマインドは大きく変わった。
しかし、次の100年へと、この企業のバトンを受け継いでいけるかは、これからの考動次第だ。
「廻るコマは倒れない」と、危機を乗り越え続けた企業家 早川徳次の考え方、生き様が、そのまま映し出された経営信条「誠意と創意」は、創業者と二人三脚で走り続けた第二代社長が作り上げ、我々社員に浸透した。
シャープを傘下に収めた鴻海精密工業は、SHARPブランドと、我々が大切にしてきた経営信条「誠意と創意」を変えることなく、尊重した。
我々社員がふと迷ったときに拠り所とする経営信条「誠意と創意」は、
海外資本が入っても、変わらず根幹にある。
根幹から延びる枝葉にどんな実をつけるかは、その価値にこだわり、考え続け、育てていく覚悟が必要だ。
経営信条「誠意と創意」は、経営理念を具現化するための考動指標である。
この会社に入社して一瞥して心に響いた経営理念のくだりがある。
いたずらに規模のみを追わず、誠意と独自の技術をもって決断し、覚悟をもって前に進んだ結果、人々の暮らしに貢献してきた先人たちのドラマも紹介したい。
もしも、いつかまた機会があれば。
📝第二弾を公開しました📝
是非、ご覧ください!