見出し画像

短編 『小さな島』

 その小さな島は、本土から小型のクルーザーで30分ほどだ。数人の乗客たちに混じり、僕はその島へ向かっている。刺すようだった日差しはすでに赤みがかった柔らかさを纏い、仄暗さを含み始めた空気の間を縫って走っていた。クルーザーは藍色の絨毯に白い花を優しく並べていく。僕の視線の先には、小高い塊が小さく浮かんでいる。
 波に揺られながら乗客たちが話していた。
「ほんとに運がよかったね。」
「ほんとにそうだよ。たまたま車で通りかからなかったら見つけられなかったよ。あの島から見える夜景が楽しみだね。」
 その島は、観光ガイドには載らないほど小さい。このクルーズは個人で営んでいる事業だった。乗客たちはたまたま、「本土の夜景を一人占め」が謳い文句の船旅を見つけたのだった。
 島は次第に大きくなる。夕刻の風が肌に触れ、暑さの名残を伝える。僕はじっと黙ったまま、船着き場に到着するのを待っていた。
 僕たちのいるカンバスが、鼠色の絵具で一面を塗られ出す頃、クルーザーは船着き場に到着した。クルーザーの係留作業が終わるまで、乗客たちは黙っている。合図があってから、皆、桟橋へと降り立った。僕は、全員が降りるのを待って揺れる地面から橋へと移動した。桟橋から内陸へ向かっていくと左手には砂浜、目の前には舗装された道路があり、その奥には雑木林が見える。乗客たちは砂浜に座り始め、思い思いに何かを語らっている。僕は、桟橋からただ真直ぐに雑木林へと向かった。下草の生い茂る暗い林の中を、ひたすら進んでいった。
 この島の中心部は少し盛り上がっているため、内陸部に行くほど傾斜ができている。汗ばんだ額を服の袖で拭いながら、弾む息遣いも気にせずに歩き続けた。すっかり暗くなった林の中で、月明かりに照らされたひと際大きなクスノキを見止めた。直径10メートル以上もあるその太い幹は、この小さな島を丸ごと貫いているようだ。その太い根元には、僕の頭ほどの大きさの石灰岩が白く光っている。僕は、その石の前に跪き、そっと目を閉じた。組んだ手の親指の付け根の出っ張りを額に押し当ててしばらくじっとしゃがんでいた。
 目を開き、空を見上げる。枝葉の間から僕を呼ぶ光。彼らの訴えが僕の身体を硬直させる。
 温い湿った風に肩をたたかれ、ふっと我に返った。それから僕は石の横に腰を下ろした。その石にもたれかかりながら、暗い林と星の明るさを交互に確かめるように見比べていた。幾度も見上げたはずの星たちは、今までにないほど輝き、林の中の暗闇を強調した。上をじっと見上げては、前に目を凝らした。何度か繰り返した後で、疲れた首を癒すため、俯き目を閉じ、黙っていた。
 その時、クスノキの幹の裏側から足音が迫ってくるのが聞こえ、視界に懐中電灯の光が入ってきた。そして、野太い声が耳に届く。
「時間だぞ。」
「……はい、父さん。」
僕は重たい上体を起こし、ゆっくりと立ち上がった。

 水面に映る星々と街の明かり。揺らめきを真直ぐ切り裂きながらクルーザーは進んでいく。乗客たちはゆったりと陶酔に浸っていた。
 舵を取る太い腕が上下に動いている。存在感のある大きな身体の傍らで、僕はずっとあの島の陰影を眺めていた。本土の夜景を背にしながら。

よろしければサポートお願いします!