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(短編小説)残されたペットボトル

彼女は静かに歩いていた。明け方の薄暗い通りを抜け、駅前の自動販売機の前で立ち止まる。秋の冷たい風がコートの裾を揺らし、髪を軽く乱した。彼女の手は震えていたが、それが寒さのせいなのか、あるいは別の理由によるものなのかは定かではない。彼女は鞄から財布を取り出し、小銭を機械に投入する。その手つきはぎこちなく、幾分か不安げだった。


彼女がボタンを押した瞬間、機械が低い音を立ててお茶のペットボトルを吐き出す。彼女はそれを手に取ると、しばしの間、ぼんやりとそのペットボトルを見つめていた。その目にはかすかな迷いが浮かんでいたが、すぐにそれを振り払うように首を小さく振り、ペットボトルを鞄にしまい込んだ。


駅のホームに向かう階段を上ると、彼女の足取りは徐々に重くなっていった。まるで目に見えない何かに引き止められているかのように。一歩一歩、彼女は躊躇いながらも進んでいく。その表情は硬く、眉間には深い皺が刻まれていた。何かを考え込むように目を細め、唇をきつく結んでいた。


ホームに着くと、彼女はベンチに腰を下ろし、再び鞄からペットボトルを取り出す。手の中でそれを回しながら、何かを決意したように目を閉じた。ふと、彼女の口元に微かな笑みが浮かぶ。その笑みはどこか空虚で、冷たい。


電車がやってくる音が聞こえ、彼女はゆっくりと立ち上がる。周囲の人々の足音や声が遠く感じられた。彼女はペットボトルのキャップを開け、ぐいっと中身を一口だけ飲むと、そのままホームのベンチにペットボトルを置いて立ち去った。電車が到着し、扉が開く。


彼女は振り返ることなく、静かに電車に乗り込む。電車の扉が閉まり、彼女の姿が闇の中に溶け込むと、ホームにはひとつだけ、お茶のペットボトルが残されていた。それは転がることもなく、ただそこにひっそりと佇んでいた。

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駅のホームで見つけたお茶のペットボトル。ラベルには特に目立った特徴はなく、誰かが忘れたものだと思われた。人通りの少ない時間帯、ペットボトルは無造作にベンチの上に置かれていた。


それを見つけたのは、通勤途中のサラリーマンだった。スーツの袖口を直しながら、彼はそのペットボトルに目を留めた。何気なく手に取り、冷たい感触を確かめる。まだ中身は冷たく、誰かがついさっきまで持っていたのだろうと推測できた。しかし、周囲に持ち主らしき人影はない。ホームには彼一人しかいない。


彼はペットボトルを持ったまま、足元を見つめた。心のどこかに引っかかるものがあるのだが、何なのかは分からない。ただの忘れ物だと自分に言い聞かせるが、その冷たい感触が彼の手に残り、次第に不安が胸に広がっていく。


電車が到着する音が遠くから聞こえ、彼はその音に反応して顔を上げた。だが、その瞬間、目の前の光景がぼやけた。足元が揺れ、意識が遠のいていく。次の瞬間、彼は力を失い、その場に崩れ落ちた。


ホームには再び静寂が戻り、彼が持っていたペットボトルだけがベンチに転がった。中身が少しずつ漏れ出し、床に薄い緑色の液体が広がっていく。その液体は、淡い色をしているが、どこか不自然な色合いだった。


やがて、駅員が異変に気づき、駆け寄ってきたが、すでに手遅れだった。彼の目は虚ろで、動く気配はない。ペットボトルを拾い上げた駅員の手が、その冷たさに一瞬身震いした。


駅のアナウンスが響き、いつも通りの一日が始まる。しかし、ホームの一角には、何かが確かに変わってしまった痕跡が残っていた。誰もが気づかない、あるいは気づきたくないその異変は、今後も静かにそこに留まり続けるだろう。

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