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なぜソーシャル・サーカスをやりたいと思ったか

「社会と生きるサーカスなんです」

瀬戸内サーカスファクトリーは、ソーシャル・サーカスではないけれども、社会と生きるサーカスなのです、と、ずっと言い続けてきました。

地域に生きる芸能
根っこの部分には「人間、ひとりひとりの可能性を信じたい」という思いがあります。
瀬戸内に来る背中を押してくれたのは、地域芸能の人たちとの出会いでした。
プロのそれとは明らかに違う、温かみのある舞台。日常生活でも、歌舞伎の見栄をきったり、お囃子にそわそわしたり、幼いころから染み付いた「血肉としての芸能」に衝撃を受けたのです。
飛躍に聞こえるかもしれませんが、サラリーマン時代に自分が感じていた空虚感、寂しさみたいなものは、古来、芸能文化が埋めていた部分がごっそり抜けてしまったからなのではないか?と思ったのです。つまり、近代、現代では、芸能はプロの演じ手と観客に分かれ、観客には演じる力も権利もないような気がしてしまいます。本来芸能とは、日常生活、生の営みのなかにある、自然界の脅威や収穫への感謝のために行われてきたのですが、現代ではその「芸」の部分だけを抜き出してしまって、目的である「祈り」が抜け落ちて、祈りには人間全てが関わるはずなのに、そうでなくなった。
しかも、芸能が祈りであった時間のなんと長かったことか!現代といわれる、たった数十年、少し遡ってもせいぜい100年か150年の間に、人々の生活から祈りの芸能は忽然と消失してしまったわけです。

瀬戸内の芸能をみたとき、生活にしっかりと結びついた芸能がまだあるのだ、ということに非常な喜びを得、現代サーカスという新しい芸能を生み出すならば、生活と芸能が結びついたこの地で始めたい、と思ったのでした。

人の可能性を信じたい

それとは違うレイヤーで、人間の可能性について考えていました。
実は10年以上前、自分はかつて大きな失敗と挫折を味わった時期があります。もちろん、その前後も(むしろ瀬戸内サーカスファクトリーを初めてからのほうが)大きい失敗はあったのですが、10年余り前の挫折がもたらしたのは、「自我の消失」でした。

最初の3年か5年は酷いものでしたし、10年は続いたと思います。
存在していても存在しない、鏡をみても自分が見えない(物理的に網膜には映っているのだけれど、認識できない)、いつも透明人間の感覚があるー。
胸を張れないし(本当に物理的に張れないんです)、笑うということができない。
日常生活を送っているから、他のひとが笑うのは見ていて「口の端をあげれば笑えるのかな」と思ってやってみても、笑顔にはならない。

それと、自分の場合は、自我がなくなっても、目標に向かうベクトルの太さだけは、まったく変わらず、むしろそこに全精力が傾けられていたというのでしょうか。
なので今でも、個人としての自分にたいする意識はすごく低くて、やっている事、目標、プロジェクトだけが見えている、といった感じです。
クレイジーな情熱、とよく言われますが、ある意味本当にクレイジーだったのですね(笑)。

そんな中、瀬戸内に移住し、「サーカス」という未知のものに対して、ひとり、またひとりと集まってきてくれた、地元のひとたち。
人間の価値を決めるのは「場所」じゃないし、職業でも肩書きでもない。
それぞれの人に可能性があり、それを引出されるかどうか、しかない。
そんなこんなで、最初の7年くらいかな?大都市のプロの手を借りずに、この地ならではのやり方で、あらゆるスタッフを育ててみせる!と息巻いていました。

いきなり降ってきた私と、思いもかけない提案、無茶振りに、疲れて去ってしまったひとも沢山います。人は通り過ぎるものだと思っても良いのだけど、ひとりひとりがずっと心に残り、後悔も残ります。

法人(会社)としての壁

法人としての挫折は何度かありましたが、2019年末は本当に厳しい状態でした。
この仕事を続ける資格も能力もないと思い、他所の組織で働こうと、真剣に考えた時期で、完全に瀬戸内を引き上げるつもりで北海道の実家に戻り、和やかな家族団欒を楽しみ、安らぎを味わっていたのですがー
年末にも救急病院に運ばれ、弱り切っていたはずの父が、数日後にやおら
「未知子はいま、北海道に帰ってくるべきじゃないと思う。
10年も頑張ったのに、いま帰ってきたら、全てがゼロになってしまうよ」
と。
娘が帰ってきたら、なんだかんだいって嬉しい、と思っているはずの両親なのに、まさか!と思いました。
でもその言葉で、自分は辞めたいんじゃない、続けたいけれど、続ける資格がないと思っていたのだ、と気付きました。

実際の状況は何も変わっていないし、辛い、向き合わなきゃいけないことは山積みなのに、心が完全に変わったのです。
やろう!もう一度頑張ってみよう!と、心を決め、再び瀬戸内に戻りました。

社会に繋がっているから。

30歳代終わりまで、よもや将来自分が会社の経営者になるなど、想像もしないし願ってもいなかったけれど、
本当にやりたいことがあるなら、どんなに小さい規模からでも、自分自身の力でやらなきゃだめなのだ、とわかった時、そう、2010年の終わりに、心が決まった。

その後、経営など向いてもいないし勉強も経験もなかった人間が2024年には、法人化10年を迎えます。

この13年、たった一人で軽自動車に段ボール2つだけ乗せて瀬戸内に乗り込んだ自分が生きてこられたのは、年齢も、性別も、職種も混ざり合った、社会のあらゆる人たちに助けられてきたから、に他なりません。本当です。
途中で貯金もなくなり、明日の暮らしにも怯え、(今もまぁあんまり変わりませんが)どうやって13年も、家族も親戚もいない地で生きてこられたのか。
もちろん、不安定な人生を歩む相手に上からの力をかざそうとする人はいました。でもそれは、13年ここで生きてきて、数えられるほどの、むしろ稀な事でした。

芸能は風土から生まれるもの


芸能は、地域から、風土から生まれるもの、と信じています。情報が豊富でも、それは文化の創出にはつながらなくて、コピーとサンプリングとアレンジ、しかありません。

本当にモノを生み出したいひとは、むしろ寡黙になり、できるだけ余計な情報を排除したいのではないかと思います。いろんな考え方の人がいると思いますが、自分がこれまで出会った「天才」と思うひとたちは、みんなそういうタイプでした。

なぜソーシャル・サーカスをやりたいと思ったか

今年初めて、「ソーシャル・サーカス」と銘打って、プロジェクトに着手しました。
いくつかの意味があります。
オリンピック・パラリンピックという、国を挙げての大イベント(その後のことはともかく、壮大な予算が投入されるもの)が終わり、3年続いたコロナ禍の影響下からようやく抜け出し、
やはり、これから文化に携わる人間は、これまでのやり方の踏襲ではなく、新しい「文化の生き方」を考え出していかねばならないと思います。
私たちは民間で、自立しなければなりません。
それは、文化だけでなく、社会の多くの分野で、岐路に立たされている業種もたくさんあるでしょう。
かつてなく、しぶとく、創造的で、革新的に仕組みを変えていかねばならない、岐路に立たされています。

これまで、私たちが生き、生かされてきた地域社会、あるいはもうすこし広い社会で、これまでの業種の壁、つくり方の常識は無かったことにしないといけない、いえ、むしろ、こんな状況でなければ壊せなかった壁が、いま、否応もなく、壊れていく時代にきたのだ、と思います。

そんな時代をひしひしと感じ、これまでできなかったチャレンジをしてみようと思いました。
それが、私たちのソーシャルサーカスプロジェクト「瀬戸内みんなのサーカス」です。
こどもの心身育成、高齢者の健康増進、ひきこもりなど社会とのコミュニケーションに苦しむ人々の居場所づくり、
それぞれ、とても1団体が担える内容ではないです。
ですが、それぞれの分野に、すでに担い、長年、情熱と労力を傾けてきた人たちがいます。
そうした人たちと結びつき、これまでのアプローチ、ネットワークとは異なる展開ができるかもしれない?

まだまだハテナだらけの、未熟なスタートではありますが、幸い、それぞれの分野に関わってくださる専門家の皆様は、「なにそれ?」と思いながらも、みなさま企画の意味を理解してくださり、また(幸い)好奇心をもって、力を貸してくださることになりました!

むすび

この記事を書きたいなと思ったのは、
新しいチャレンジの全容を描き、詳細を書き、調整し、動き出すまでの膨大かつ不安な作業を、最終的に本当によく理解し(ようとし)て下さり、伴走を決めてくれた専門家のみなさま、被験者になることを受け入れてくださった皆々様に、まずもって感謝を申し上げたかったのと、

告知ばかりで、なんだか勢いよく情報を連発しながら、なぜこれをやりたいと思うに至ったかは伝えるすべがなく、
せめてこちらに書き留めておきたい、と感じたからでした。

雑駁かつ長文にて失礼いたしました!
読んでくださり有り難うございました。

瀬戸内サーカスファクトリーは現代サーカスという文化を育て日本から発信するため、アーティストをサポートし、スタッフを育てています。まだまだ若いジャンルなので、多くの方に知っていただくことが必要です。もし自分のnote記事を気に入っていただけたら、ぜひサポートをお願い申し上げます!