人生そんなもんよ 3 祖父と縁と腕時計
外交的な祖母がよくしゃべるのは分かるが、内向的な母もある年齢に達すると信じられないくらいよくしゃべった。
人のことは言えないが、うるさいくらいに。
だからこうして記憶にあるネタも多くて書けるわけだが、父や祖父はもともと口数が少ない。
はてさてどうしたものか。
父は幸いなことにまだ生きている。
満州からの引揚者なので、生きている間に聞いておきたい話も山ほどある。まあ父の話はあとでゆっくり聞いて書くとして、先に祖父の話から始めようか。
不思議な縁 1
祖父は幼い頃母親を亡くし、男手一つで育てられた。
兄弟姉妹はいないが親戚は山梨にいる。
山梨の親戚とは、祖父が亡くなるまでずっとやり取りを続けていたが、どんな人がいるかは祖父のお葬式の時まで分からなかった。
弁護士のおじさんがいると知ったのもお葬式の時だ。
聞くところによると、祖父の親戚には弁護士や医者が多いらしい。
職人はどうやら祖父だけで、毛色が違った。
弁護士のおじさんとは、偶然お互いにカソリックを信仰しているとその時分かって、二人でロザリオを握りしめ、一緒に祖父の骨を拾った。
母も祖母に手を引かれて、英語を学ぶために日曜学校に通っていたが、まさかキリスト教を信仰している親戚が祖父にいるとは。
牧師さんが親戚にいるのも後で知るのだが、その話はまた別の機会に。
父も法学部で大学院まで進み、弁護士を目指していた時期がある。
似た者同士が巡り合い結びつく縁とは本当に魔訶不思議なものだ。
形見の腕時計
亡くなる直前、形見分けで祖父が腕時計をくれた。
スイスのウィットナーのネジ式腕時計だ。
祖父が気に入ってずっと使い続けていたのだろう。
伸び縮みする金メッキの太いベルトは、所々伸び切ってゆるくなり、同じく金色の時計の風防や裏にも使用痕があってムーブメントは動かない。
「もし、修理して動くようなら使って欲しい」と祖父は言った。
祖父から託された腕時計はアンティークで、修理できる店は限られる。
「ここなら直してくれるかもしれない」と紹介された原宿のお店に持って行き、返事をドキドキしながら待っていると快く与ってくれた。
それから何日経っただろう。
危篤の知らせを受けて病院のベッドに駆け付けると、祖父の意識はすでにこの世になく、私の声は届かない。
ただ「まさかつさん、苦しいよ。早く助けておくれよ」とうつろな目で宙を見つめ、姿が見えない誰かに向かって話しかける祖父がいた。
ちなみに「まさかつさん」という人を知る者は誰もいない。
「おじいちゃん、大丈夫だよ。もうすぐ楽になれるからね」とベッドからだらりと垂れ下がった左手を取って握りしめ、聞こえていないと分かっていながら話しかける私の目からは涙がこぼれ落ちた。
「御臨終です」
その日の午前中まで普通に意識もあり、話していた祖父が亡くなったことに驚いたのは、家で待機していた家族だ。
母はずっと「信じられない」と呟いていた。
臨終に立ち会ったのは、介護のおばさんがくれた電話を聞いて「これはただごとではない」と察した私だけ。
その後の手順も私が病院のスタッフから聞いて両親に伝えた。
母は、自分の出生の秘密を忌み嫌い、祖父を恨んでいた。
自分の子供達が同じ目に遭うのが怖かったのだ。
祖父が入院中我が儘を言うのも許さなかった。
私は小さい頃、四畳半の仏間で祖父と一緒に寝ていたし、その頃、初めて映画を観に連れて行ってくれたのも祖父だ。
熱気が渦巻く上野の映画館で観たのはピノキオで、混んでいて立ち見だったのを覚えている。
帰りの電車の中、疲れて船を漕ぐ私に祖父は「おじいちゃんにもたれかかっていいよ」と優しく言った。
そうそう、腕時計と言えば、私が中学に入学する時、祖父は赤いベルトの確かセイコーの腕時計を私と一緒に見て買ってくれたっけ。
石神井公園駅へ向かう途中に大きな西友があって、その中にある時計店で。
中学、高校が上野にあった私は、職場が同じ方向にある祖父と山手線の日暮里まで一緒に通うこともしばしば。
だからだろうか?
入院中、祖父は父と母には逆らうのに、私の言うことは素直に聞いてくれた。
祖父に対する母の思いが、娘に看取られずに逝くという最期に繋がったのかもしれない。
4月8日のお葬式当日、清々しく晴れ渡った桜咲く空の元、朝早く喪服に着替え、通っていた上野にほど近い下谷にあるお寺に向かう準備をしていると1本の電話が鳴り響いた。
受話器を取るとそれは時計店からで、「腕時計が直りました」との知らせ。
このタイミングで!?
「おじいちゃんの腕時計、また動き出したよ」
私は祖父の魂が違う形で戻って来た気がしてならなかった。
案の定、この腕時計がもたらす縁と、亡くなった祖父の話はこの後も続くのだが、とりあえずそれはまた別の機会に書くとしよう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?