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杏樹の男の子:ショートショート

10歳の《ぼく》はよく、河川敷で壁当てをして遊んでいた。少し離れたところのグラウンドでは、リトルリーグの少年たちが、声を絶やすことなく練習に励んでいた。

友を叱咤し、激励し、その同じ友から叱咤され、激励され・・・というその輪のなかに《ぼく》は入ることができなかった。
あんまり近いところでは恥ずかしいので、離れていなければならなかった。しかしあんまり遠いと、孤独で寂しかった。

なにが恥ずかしいといって、使っているグローブが、それなりにしっかりとしたものではあったけど、おもちゃ屋の無名グローブだったのだ。母が買ってくれたこのグローブを大切に思いながら、高額ミットに刺繍まで入れているリトルリーグの彼らの前では恥ずかしく思うのだった。

河川敷は、必ずしも壁当てに適した場所ではなかった。まともにボールの跳ね返ってくる壁は、橋の支柱があったが、グラウンドに近すぎた。ずっと離れたところにも橋は架かっていたが、遠すぎた。

そこで《ぼく》が選んだのは、ほぼ中間といっていいくらいの場所の土手だった。堤防の役目も果たす小高い丘のようなこの土手は、場所によっては草叢に覆われているが、コンクリートで舗装されている箇所ももちろんあって、かろうじて壁当てができるのだ。

そうして今日も彼は、土手の法面(のりめん)に向かって軟式のボールを投じる。直角にそびえる壁のようには、ボールは上手く返ってこない。当たった瞬間の音もまるで手応えがなく、どれだけ感覚では剛速球でも、へたくそなキャッチャーのように「パシュッ」と侘しい音しか鳴らず、拍子抜けするのだった。
ボールは頭上高くへ跳ね、高さこそあれど決して彼の定位置までは届かない。ぽとりと土手の傍に落ちて、そのたびに彼はわざわざ拾いに行く。だから投球練習としては、非常に効率が悪かった。

ときおり、今日一番の高い跳ね返りに思えることがあって、急げばノーバンで捕球できるかもしれないと飛び出したりする。しかし成功したことは一度としてなかった。またその失敗する瞬間は我ながら滑稽だった。グローブを下手(したて)に出しながら全力で駆けはするが、届きそうな直前でボールは地に落ちて、その跳ね返りが顔面に直撃したり、ボールの動きを追って無様な格好になったりするのだ・・・

するうち、向こうの土手のうえを、別のチームの少年たちが、こちらに向かってぞろぞろと自転車で走ってくるのが見えた。同時にそれはあの滑稽な瞬間でもあった。おそらく彼らも目にはしただろう。しかしどんな瞬間であれ、彼らの反応はそう異ならなかったに違いない。
案の定、彼らは《ぼく》の前までやってくると、先頭から最後尾までの誰もがニヤニヤと嘲りの笑みを浮かべて見下ろしてきた。人を小馬鹿にするような視線を《ぼく》の記憶に残して通り過ぎて行った。

それから彼は、恥辱に怒りを感じるのでもなく、悔しさに悲しみを感じるのでもないまま、ただ茫然と、無感情に、全力投球はやめ、ごく法面に近いところから、ほんの軽くボールを放っては、のろのろと滑り落ち、転がってくるボールをミットに収めていた。

「おーい」と、背後から女の人の声がする。大人の女の声だった。そんな知り合いがいる訳はないので、かまわずボールの軌跡に集中して、感情を押し殺した。
だが女の声は確実に近づいてきた。

ついにはすぐ真後ろから、「おい」と朗らかなソプラノが心に、呼び鈴のように響いて、仕方なしに《ぼく》はドアを開けてみようと振り返った。

「無視するなよ」
ぽつりと小さくつぶやく女。伏しがちの目はどこか悲し気に憂いていて、はかない口元はどこか楽し気に笑っていた。

彼女の手には、グローブがはめられていた。

「一緒にキャッチボールしようよ」

《ぼく》は、急激に湧きおこって胸を熱くする、押し殺す必要のない感情までを、区別もできないまま、惰性にまかせて押し殺した。

そっぽを向いて、ふたたび一人、土手に向かってボールを投げた。

「よし!」と、女が走ってゆく。
そして高く跳ね上がったボールを、ノーバンで捕球した。
「ナイスキャッチぃ!」
そういって自画自賛する女は、くるりと身をひるがえして、《ぼく》と向かい合った。まばゆいばかりに弾けるその笑顔につられて、あやうく《ぼく》も笑いそうになった。

「いくよ!」
「あーぁっ!ごめん!」

ボールは大きく逸れたのだ。しかし全く捕球できないほどでもなさそうだった。《ぼく》は精一杯に腕を伸ばし、ジャンプしてどうにか捕球した。勢いはずんで女に背を見せていた。
後ろから、「おおお!ナイスキャッチ!!うまいじゃん!!」と飛んでくる声。
《ぼく》は振り返って顔を見せることに躊躇した。なぜなら、嬉しくて笑っているのが自分でもわかったからだ。

しかしどう考えたってこのまま微動だにしない訳にはいかなかった。もっとも、そう思うとこの女がどこか憎いように思えて、笑顔もいくらか薄まった気がした。

しぶしぶ身を転じた。どこまで笑顔を消すことができたか、自分では分からなかったが、《ぼく》の顔を見て、ますます笑顔に溢れてゆく女の顔を見るにつけ、自分はほとんど笑顔のままなのだと、もはや観念するしかないように思えた。

穏やかで静かなのに、激しい噴火が起こっているような時間だった。返ってくるいちいちの球が、生き物のようだった。どのボールもそれぞれに個性があり、一球一球の、投げては投げ返されるこの無言の交わし合いは、めぐる太陽のように同じことの繰り返しではなかった。

いつしか《ぼく》は、明日も明後日も、いな、ずっと無限の先まで彼女と、一緒にいたいと思うようになっていた。

「よし!おわり!お腹すいちゃった」

そう聞いて《ぼく》は、急に世界が氷河期に移行し、温暖な気候に終わりを告げられたような気がしたが、

「向こうでさ、みんなとバーベキューしてるからおいでよ」と聞いて、その言葉は二酸化炭素のごとく彼の心に急速な温暖化をもたらしたのだった。

ためらいもせず彼はこっくり頷いて、女について行った。

一緒に歩いている最中、女は「何年生?」とか「いつも一人で遊んでるの?」とか訊いてきた。
《ぼく》はドキドキと高鳴る自分の胸ばかりに気を取られて、答えることはできたが、本音を表明する明るい口調で答えることはできなかった。

なんとか楽しいという気持ちを伝えられないものかと思案しているうちに、みんなのところに到着した。

「おー杏樹!どうしたん?子ども連れて」
となれなれしく口をきく男がいた。
「うん、一人で寂しそうにしてたから、誘っちゃった」
「まじか!ちょうど良かった!焼き上がったところなんだ。ほら、ぼうず、おいしいぞ」

男はそう言って、脂がてかてか煌めく串刺しの肉を差し出してきた。
《ぼく》は、感情を押し殺して、その肉を受け取った。

( ´艸`)🎵🎶🎵<(_ _)>