先生は社会を作る重要な担い手。仕事と育児の両立への悩みから、オランダに移住して見えてきた教員という仕事の本質とは?
2019年よりオランダに移住し、現在はオランダと日本の教育をつなぐ会社Edubleを立ち上げて代表を務める三島菜央さん。
三島さんは、高校中退を経験し大学に入学。留学、ベンチャー企業での勤務、高校教諭といったさまざまなキャリアを経て、現在のオランダ移住に至っている。
多様なキャリアを歩んできた三島さんが、なぜ教育分野の仕事を選んだのか。なぜ高校教諭を退職した今も、オランダの教育についての発信を行っているのか。それらの理由について三島さんに詳しく話を聞いた。
教育分野を志すきっかけは、学生時代のアメリカ留学
ーー三島さんは、オランダに移住して4年を迎えられたそうですね。現在オランダでどのようなことをされているのか教えていただけますか?
私は2019年にオランダに移住し、現在はオランダと日本の教育をつなぐ会社「Eduble」を運営しています。
この会社では、現地に住んでいるお子さんたちの日本語サポートをする教室を運営したり、オランダの教育について調べたり発信したりする活動に取り組んでいます。現地でできたつながりを生かして、オランダの教育視察ツアーを企画したり、少し前から現地の小学校で英語を教える仕事も始めました。
ーーオランダ移住前は、大阪府の公立高校で勤務されていたと聞きました。もともと教育の分野に興味があったのでしょうか?
実は学生のときは社会起業家になりたいと思っていたので、学校の先生になるつもりはありませんでした。でも大学3年生のときに転機が訪れたんです。
当時私は、10カ月間アメリカに留学をしていました。そのときに他の人より早く留学のプログラムが終了したので、大学の隣にある中学校を見学させてもらったんです。なぜ学校を見学したかというと、私が留学していた時期は、ちょうどアメリカ大統領選挙と重なっていて。留学先の現地学生たちは政治への関心が高く「あなたは自分の国の政治についてどう感じているの?」と聞かれたことがあったのですが、そのとき私は答えられなかったんです。
友人から「自分の国のことについて知らなさすぎない?」と言われてしまって、ハッとしました。政治への関心という点で彼らと自分との間にある違いに気づいたこのとき、アメリカで生まれ育った彼らがこれまでどんな社会でこれまでを過ごし、教育を受けてきたのかに興味が湧いてきたというのが、私が教育に興味を持つきっかけでした。
——アメリカの中学校の視察ではどのようなことを感じましたか?
一人ひとりの子が、自分の意見を何の抵抗もなく話している姿にとても驚きました。自分の話すことは自分で決めるんだという雰囲気がすごく伝わってきたことを覚えています。
驚いたシーンの1つに、自身が養子として育てられているということを話してくれた子がいました。「私の見た目は日本で生まれ育ったあなたと似ているけれど、父と母はブロンドなんだよ」と私に言ってきたんです。
後に幼少期をアメリカで育ったオランダ人の友人が教えてくれたのですが、アメリカでは「自分が何者であるか」を自覚し、説明できる能力が求められたと感じているということでした。アメリカの教育や社会の背景には、多様すぎると言っていいほどのバックグラウンドが存在するからこそ、そういった人々が育ちやすいのかもしれないと思いました。
教員としての働き方を見直し、もっと広い世界を見るためにオランダへ
ーーハッとするような気づきがあったのですね。留学先で教育に関心を持ったものの、大学卒業後はすぐには先生にならなかったそうですね。
はい。大学4年生の春に帰国して、周囲の流れに合わせるかたちで一旦就職活動をしましたが、実は就職先を決めずに大学を卒業しました。
それも、アメリカ留学中に「なぜ日本人は大学の授業を休んでまで就職活動をするの?大学での学びが自分の仕事を見つけるための学びなのに、それっておかしいと思わないの?」と言われたことがきっかけでした。
自分が本当にやりたいことが分からない状況で闇雲に就職活動をすることはできない...そう感じていた私に、家族も「あなたはやりたいことが見つかったらイノシシみたいに走る子だから、もうそれでいい」と言ってくれたこともあり、結局卒業時には就職先は決まっていませんでした。
そんなあるとき、京都のコンテンツを世界に発信することに取り組むベンチャー企業を見つけました。私は「これだ!」と思って、採用募集をしていなかったにもかかわらずこれまで感じてきた社会に対する疑問や、今自分が感じていること、そして社会起業家を目指すために起業家の側で学びたいという旨のメールを打ちました。
するとその社長から「おもしろいから、ぜひ来てください」という返信があり、成果報酬制で営業や企画の仕事をさせてもらうことになったんです。そうして、当時はベンチャー企業での仕事の傍ら、アパレルショップでバイトをしたり、英語の個人塾をしたりしながら生計を立てていました。
ーーそこから三島さんが先生になる直接的なきっかけは何だったのでしょうか?
私は外国語大学に通っていたり、留学したりしていたこともあり、英語が話せることが当たり前の環境に身を置いてきました。でも、例えば営業先の方と話をしているときなど、一歩外の世界に出てみると「もっと英語を話せるようになりたい」とみんな口を揃えて言うんですね。
私に「英語がもっと話せるようになりたい」と話す人の多くは、「英語=学校の教科として必要だったもの」と捉えざるを得ない環境だったのかなと感じました。でも私は、英語は世界に通じる1つのツールだと捉えているんです。英語というツールがあれば、海外の文化や価値観を取り入れる大きなドアを持つことができます。
この英語に対する価値観の違いに違和感を感じたとき、アメリカ留学の際に感じた「あらゆるものの根本には教育がある」という感覚を思い出し、「教育の場に、英語を学ぶ意味を伝える立場として戻ってみたい、もっと広い価値観で学ぶ機会を届けたい」と思うようになったというのが、教員を目指した最終的な理由です。
ーー過去の経験がキャリアとつながった瞬間ですね。実際に学校の先生になってみて、どんなことを感じましたか?
教員としてのキャリアのスタートは、工業高校でした。大学に戻って「教員になりたいです」と伝えたら、「どんな学校でも働けるかな?」と聞かれたので「どこでも行けます!」と即答したら、「あなたみたいな性格なら、元気な男子生徒の多い工業高校でも楽しく働けるんじゃない?やってみたら?」と言われ、工業高校の常勤講師の仕事が決まりました。
実際に働いてみると、大変なことも多かったです。まず、授業を成立させることに注力しないといけないわけですが、根本的な生徒との関係づくりが求められます。
在学生の9割以上が男子生徒で、30秒に1回くらいおもしろいことを言わないと授業が成立しないほど、笑いに厳しい大阪の生徒たちでした(笑)。それに加えて、家庭環境的にも大変な生徒も多かったように思います。
この教室では「先生だから言うことを聞く」というのは通じない。それよりも、人と人との関わりを大事にして、信頼関係を築かないといけないということを強く感じました。
ーー教員1年目からチャレンジングな環境だったのですね。この工業高校にはその後9年間勤められたのですか?
いいえ、常勤講師としての期間は1年で、その間に大阪府の教員採用試験に合格しました。正規採用になってからは、別の公立高校へと異動となったのですが、実はこの最初の工業高校で夫と出会い、その後、結婚して出産もしました。子育てをしながら教員として働くのはさらに大変でした。
高校では多い場合、1人の教員が年間300人くらいの生徒の授業を担当しますが、日本における教員の仕事は授業だけにとどまりません。
教員として働く一方で、自分のたった1人の子すら大事にできないほど働き方が多忙を極める状況は、ゆくゆくは市民になる人間(我が子)を育てているという観点において、社会にとってマイナスなのではないかと感じていました。
教員の仕事は自分じゃなくてもできるけれど、私の子どもにとっては、私たちが両親です。私たちは教員である前に1人の人間でいたいし、子どもにとっての保護者でいたいというのは、私たち夫婦に共通する考え方でした。
そんなあるときに、夫が過労で電車で倒れてしまって。彼は体力には自信がある方だったので、とても不安になりました。そこで彼に「ここで一旦立ち止まろう」「世界中の先生の働き方を見に、外の世界へ行こう」と言ったんです。彼は社会科全般を担当する教員だったこともあり「もっと広い視野で教育を見られる先生になりたいと思わない?」と発破をかけたりもして(笑)。それで、彼の合意を得て家族でオランダへ移住することにしました。
自分の幸せを問える先生が、自分の人生も大切にできる子どもを育てる
ーーそんな経緯があったのですね。現在は、オランダの現地校を視察したり、小学校で先生として働いていらっしゃるそうですね。
オランダでは、多種多様な学校との出会いが多く、これまでの価値観が覆される瞬間がたくさんありました。
例えば、「先生の話は座って聞くものだ」と思っていたけれど、必ずしも座って話を聞かなくてもよい状況もあったりだとか。これまで自分が「こうでなければいけない」と思っていたものが、どんどん変化していく感覚があるんです。
また現地の小学校で実際に働いてみて感じるのは、管理職と先生の関わり方の違いです。オランダでは、先生たちが仕事ばかりにならないようにコントロールするのも管理職の仕事の1つとされています。
私は週一回しか働いていないのですが、校長が私に掛けてくれる言葉がすごく温かくて。私は、彼女の人間性がとても好きで、そんな校長と一緒に働きたいと思うから、今の学校で働いています。
「こんなビジョンがある学校で働きたい、こんな管理職やチームとよりよい教育を作りたい」と希望を抱き、満足して教職員が働けていること...これが、子どもたちへの教育がよくなるという結果につながるという考え方です。
オランダの場合、そういうモチベーションで働いている先生たちは結構多いと思います。学校という組織が整ったものになっていると、結果として子どもにとってのいい教育につながるのではないかと思うようになりました。
ーーたくさんの先生方と対話を重ねられてきた三島さんは、先生という仕事をどう捉えていますか?
決して悪い意味ではないのですが、私は、教育者という仕事は誰にでもできる仕事だとは思っていません。専門性と適性が必要な職業だと感じていますし、オランダの教員養成課程でもそのように語られるそうです。
ですので、先生になりたいと思ってなった人が、やっぱり合わないなと感じたときには、辞めるという選択があっていいと思っています。それは、「出来ない」のではなく「合わない」と捉えていいと思います。
ーーそう考えるのはなぜでしょうか?
日本の制度上、先生になりたいと思ったら多くの場合は教壇に立つことができます。それは単純に、教員養成課程を経験する中で自分自身が教員に向いているかどうかをとことん問う機会があまりないからかもしれません。
誰でもなれるということは、裏を返せば「とりあえずなっておくか」という軽い感覚で先生になる人たちも一定程度出てくるということでもあります。また教育公務員に関して言えば、とても安定した職業であると同時に、一度雇用されると特別な事情がない限り解雇されることはありません。さらに、仕事の内容や成果によって給与が変動することもありません。
そもそも、教員養成課程を通して教職という仕事を選ぼうとするとき、教職とは社会においてどのような役割を担い、教育者にはどのような資質が必要であるかを突き詰め、そこに自分がフィットするかどうかがとことん問えていなければいけないわけですが、そういった機会がないまま教員になってしまったとき、そうすると、自分は教員に向いていないかもしれないと感じても、先生として働き続けることにつながってしまうんじゃないかと思うからです。
一方、オランダでは「自分は先生に向いている」と思い続けて勉強してきた人たちしか、先生にはなれないようです。なぜかというと、教員養成課程でものすごくふるいにかけられるからです。
教員養成課程のコースに100人入ったとしても、1年目で50人程度が辞めていくという話も聞きます。1年生のときから週に1回は教育実習に出なければいけないし、座学と実践を繰り返しながら学び続けるため、先生になるのって、大変だと感じる生徒も多いそうです。それくらい専門性に裏打ちされた職業だということを、すごく感じています。
また、オランダでは、「先生になりたい」「自分は先生に向いている」ということはすなわち、子どもたちと接することはもちろん、管理職や同僚と良い関係を築けるということでもあります。そのような人物でないと、結果として子どもたちにとって良い教育を提供することに寄与できないからだと思います。
そういった意味で、先生になった後も「自分は先生に向いているか」ということが問われ続けることが、学び続ける先生や、周囲と協力してより良い教育づくりに積極的な先生を生み出すのではないかと考えています。
ーーそれくらい、教育というのは世の中においてかけがえのない仕事ということですよね。
その通りです。先生は「社会を作る」ということにおいて、ものすごく重要な役割を担っていると思っています。そんな素敵な仕事だからこそ、先生になりたいと思う人が、たくさんいるようになってほしい。
でも一方で、「先生という職業が合わない」と思ったら去るという選択も、すごく大切なことです。これから先生として働きたいと思っている人には、そんなことを伝えたいです。
また、現在先生をされている方には、「仕事ばかりしている教員にならないことが、自分の人生も大事にできる子どもを育てる」のだというメッセージをお伝えしたいです。
少し立ち止まって、自分自身の幸せについて問い続けられる余白のある職場環境を整える先生たちが増えると良いですし、逆に言えばそれは先生たちの力だけでは叶えられないものなので、教育委員会や保護者、教育の周囲に存在する人たちが、先生たちが望む変化の支えになってくれる社会にもっと変化すると良いなと願っています。