心の余裕、次第。
以前、この記事で優しさについて語った。
この記事では、
「心の余裕くらいは、誰かのために使える人でありたいなあ」
と書いた。
つまりは僕にとって優しさとは「すべきこと」ではなく「追加オプション」だ。
「今なら、ちょっと余裕あるので助けるよ!」というスタンスで生きている。
逆に言うと、冷たく当たってしまったとしても自分を責めることがなくなった。
その時は余裕がなかったと思うことにしている。
ぱっと見、「優しくあるべき!」と考えてる人の方が立派に見える。
でも実は意外なことに、この考え方に気づいてからの方がむしろ利他的になった。
「優しくしなきゃ」と考えていた頃はどうしても自分に精一杯だったのに、
オプションだと思ってからは、「よし、今は心行くまで愛そう!」と、一時的にではあるが、手放しで誰かを愛せるようになったからだ。
と、ここまでは優しさに限った話。
実は最近、この論理構造自体がマイブームだ。
(論理構造がマイブームってなんやねん)
僕には「優しくありたい」以外にも理想像が結構ある。
例えば、
間違いを認められる人でありたい。
四季を感じられる人でありたい。
愚痴は減らしたい。
ゲームの時間を減らしたい。
などなど。
でも、それがうまくいかない時もたくさんある。
そういう時は、「あー今はちょっと余裕がないんだな」と思うようにしている。
理想を体現できなくても責めることが少なくなった。
一方で、普段全然無理をしないからこそ、余裕が生まれる時はちゃんと生まれる。
その余裕を自分の理想とするものに割くのだ。
そして、この考え方はそんなにかっちりしたものじゃない。
先ほどなんかは、「今日は花粉にやられているからもう寝ようかなー」と思っていた。でも結局は一本書き上げることができた。
これは、ある種「心の余裕」というのが曖昧だからだ。
余裕がないように見えてあったり、余裕があるように見えてなかったりする。
実際に行動してみるまで分からないことが多い。
しかも、余裕の有り無しを見極められなくてもいい。
それで潰れたら、その時に休めばいいのだ。
だからこそ、もうひと踏ん張りできることもあるし、自堕落を極める時もある。
「心の余裕、次第」
自分を許しつつ、頑張れる言葉なので、結構おすすめだ。
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