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哲学|何者でもない者になりたい


『人間は属性の集合でしょうか』


このように聞くと、「いいえ」と答える人が多いと思いますが、
実際に行動を顧みた時、案外否定できない人も多いように私の目には映ります。

例えば「自分らしさ」。

自分は優しい人だ。
自分は絵を描くのが好きな人だ。
自分はHSPだ。
いやいや自分は天邪鬼だ。

歳を重ねるにつれて、自分というものが少しずつ分かっていきますが、
そうやって言葉にしたものを自分だと思っている人は多そうです。

これは決して悪いことではないと私は思います。

自分を言葉にできた方が誰かに伝えやすいですし、
つまりは社会で生きやすくもなりますし、
やりたいことを言葉にできていると何かと専念しやすくなります。
作品を作る人にとっても解像度が上がるというもの。
また、あまりに霧が深いと歩く活力すら失くしてしまいます。
自分を言葉に落とし込む行為は、完璧は無理にしろ、良い側面がたくさんあります。

だから私は自分で自分をタグ付けする行為をやめるつもりはありません。

ですがやはり自己分析には危険も孕んでいます。

分かりやすい例で言えば最近流行っているMBTI。
私自身は「INFPと診断されるINFJ」だと自認していますが、それに気づいてから多少行動が変わったのもまた事実。
書く文章の毛色が少しだけ丸くなりました。
丸くしようと思ったのではなく、それが自然体に変わったのです。

以前の私と、今の私。どちらが本来の私かはここでは言及しませんが、
MBTIは五里霧中だった私にとって非常に有意義ではありました。
必要な過程だったんだと思います。

ですが同時に、私はこれを危険というか窮屈に感じることがあります。
MBTIに限らず「言葉にした自分」に縛られて行動が変わってしまうことがよくあるのです。
自分はこういう人間だ、と決めつけてしまう。
言葉が呪いのように絡みついて縛り付けてくる。
まるで蜘蛛の巣です。

私はその窮屈さを誰よりも嫌がる人なんだと思います。


だから。

女性でなく、男性でもなく、
フリーターでも、絵描きでもなく。
詩人でも、エッセイストでもなく。
闇を描きたい時もあれば、光を描きたい時もある。
あえて言葉にするなら「何者でもない者」に向かって。
自分を言葉にできた時にはもうそれでは零れ落ちてしまう方へ。
夜無らしさってなんだろう、とみんなが不思議がるように。
どの分類にも属さずに、すり抜けてすり抜けて、気の赴く方へと飛んでいきたいです。

そうやって”属性”を削ぎ落した先に私がいるし、
それが個性を磨いていくことなんだと思っています。


私を分類すること自体が間違っています。


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