生活思創の体系化準備<後編>
生活思創を立ち止まって試考しております。体系化準備の後編です。後編では、生活思創の置き場所を言語化、図解化します。
◼️生活思創にある試考の背景
生活思創では、試考の土台にインテグラル思想を援用しています。特に活用している感覚がある考え方のポイントは2つあります。
一つ目「すべては部分的に正しく、部分的に間違っている」
誰が何を主張しても一理あるが、一難あるようにできている、ってことです。否定しても全面否定はしない、肯定しても全面肯定はしない。それを承知で答えを選ぶ。なので、答えはいつも環境とセットで暫定的。どんな考えも再考の余地がありますから、キリがないわけです。それでも、都度の解を求める姿に何か一貫した態度があるという探求です。まあ、これが人間の発達理論の発祥の地なんだけどさ。
二つ目「世界は解析されるごとに、統合の機会が増えていく」
科学的な態度って分析が基本なので、科学が進めば進むほど知識は分断していくという考えです。分断された知識群が作る信念(世界はこうなっている、とか)は人を孤立させます。それが絶賛進行中なのが今。世間の賢さの主流は分析能力です。分解と同じだけ統合していかないとね。インテグラル(統合)な視点は「賢さを補完する」ものとも言えます。
小生もインテグラル思考を求道している一人であり、世間で不足しやすい統合視点の提供を目指して生きているところがあります。そんな小生の生活思創は個人版のラボ。もちろん、それだけじゃ生活はできないけどねw
さて今回のテーマです。
生活思創の置き所を見えるようにする試考です。生活思創らしく、ここでは対称性からのアプローチで「見通しの良さ」に近づきます。小生は、生活思創がいる環境と近いのがアートの世界だと睨んでおりますので、アートと思想の対称性で話を進めます。以前やった「性教育とデジタル教育」、「好奇心とお金」なんかと手法的には同じ原理です。
どのあたりに対称性の匂いを感じるかと言うと、生活思創が思想という大きな枠の中ではアウトサイダー(風体はよそ者だが、土地の周縁に佇む者たち)だと思っているからなのです。ならばです。アウトサイダーが全体に影響を与えていく現象を特定したらどうだろう? そこから、思想におけるアウトサイダーである生活思創を「説明できる何か」に出くわすのではないか?、そんな視点から組み立てます。
アウトサイダー・アートという概念がアートの世界にはあり、これがかなり全体に対して重要な部分を担っているのです。ならば、このアウトサイダー・アートから、アウトサイダーの意味深さを抽出してみようという魂胆です。
◼️アートにおけるアウトサイダーアート
そもそもアートって規定ができない代物です。(この辺は思想も同じ)この従来のアートの枠組みを拡張するきっかけとなる概念の提唱がアート・ブリュット(自他ともにアーティストだと認めてない存在の美的活動、後で生成AIからも出てきます)でした。それが徐々に、あれもアートだ、これもアートだっていう解釈の拡張が始まります。アートの宿命なのか、現状の革新を求めるネタとしてなのか、いろいろなものがアートとして扱われるので、これらをアウトサイダーアートと呼ぶようになりました。
このアウトサイダー・アートって、多岐に渡っちゃうので、この辺りを整理することからスタートします。
生成AIからのアウトサイダーアートの主要分類は6つ。アール・ブリュットは、アウトサイダー・アートの初期形態なので、分類が重複している感があります。なので、まずはこのあたりの大きな関係を整理してみます。
アートにおけるアウトサイダーは、アール・ブリュットという初期の概念で初めて自覚的な存在になった。ネーミングのお蔭ね。それは、パンドラの箱を開けたようにどんどん拡張をしていく。メディアはネタとして、ビジネスがカネとしてアートを欲して、ついにはアウトサイダー・アートが主流アートの増量剤的な存在になって、今も進行中。そんな認識の三重円です。
次に、細部に移ります。残りのアウトサイダー・アートのカテゴリーを眺めてみると、気がつくことがあります。本当は、ここにストリート・アートなんかも入るはずです(キース・ヘリングなんかね)。
でもって、整理・入れ替えをして6カテゴリーにしました。それぞれが類似概念で括れそうなので、アウトサイダーアートの3系統を作成してみます。
<注意点>AIの説明文には今となってはやや使用が憚れる表記もあるので、主要6つのアウトサイダーカテゴリーを「自己治癒系のアート」、「独自身体感覚系のアート」、「民族系のアート」、「幻視系のアート」、「素朴系のアート」、「ストリート系のアート」って言い直しています。
それぞれにイメージが湧きやすいように代表的と思われるアーティスト名をも入れてみました。何人かは知っている人もいるかも? 草間彌生とか、フリーダ・カーロなんかの有名人も、いくつかのカテゴリーを跨いじゃっているので単体カテゴリーでの代表とは言い辛いけど、部分的にはどこかに組み込めそうだね。
ちなみに・・・
相方は民族系のエミリー・ウングワレーのファン
本題に戻って、図表のポイントはアウトサイダーアートの6カテゴリーを3系統(色違い)に区分してみたところです。
・心身周縁のアウトサイダー(マゼンタ: 健常者の周縁、感覚特性の周縁、とかを意味します)
・文化周縁のアウトサイダー(グリーン:マイノリティの周縁、霊性の周縁、とかを意味します)
・社会周縁のアウトサイダー(ブラウン:芸術教育の周縁、展示場所の周縁、とかを意味します)
これらアウトサイダーアートの影響は、芸術への新たな解釈や美術市場の拡大などを追い風にして、主流派のアート(立派な美術館の教科書に載るような所蔵品群)の境界線を拡張していきます。
まあ、主流派のアートっていうのも、元はマイナーだったり無視されてたものが取り込まれてることがほとんどなんだけどね。つまり、みんなアウトサイダーからスタートしてるってことね。(勇気づけられますなあw)
主流のアートは、アート市場の拡大とともに、ブルーチップと呼ばれる商業的に投資対象(ピカソとかルノワールとか)になるものが登場してくるけど、一方で、時間が経つにつれて古典に分類され、美術品から博物品になっていくものもあります。つまり、アートの世界は流動的なのです。
◼️アウトサイダー思想を規定してみる
次に、アウトサイダーアートの体系図(6カテゴリー3系統)を転写して、アウトサイダー思想のフォーマットにします。生活思創をアウトサイダー思想に大きく分類してみたら、どのような形式になるかを図表にしてみましょう。
上記の図表184は、アウトサイダー思想を「思考の異文脈」っていう副題の元に、アウトサイダーアートの6カテゴリー3系統(色違い)にしたものです。
・心身周縁のアウトサイダー系統(マゼンタ)
自分の負の境遇からの脱却体験談の文脈(自己治癒系の周縁思想):小生の娘の不登校の話もそうなんだけど、思想を語る人がどこに記号接地しているかは一つのポイントではないでしょうか? ソロー「森の生活」とかね
占星術や霊感などの超理性の文脈(独自身体感覚系の周縁思想):思想が言語的に理を尽くしてなければいけないってことはないのです。人の信念にゆらぎを与えて、新たな「見通しの良さ」を提供してくれるなら、理性的かどうかは不問です。パウロ・コエーリョ、コリン・ウィルソンとかね。
・文化周縁のアウトサイダー(グリーン)
仏教思想や老荘思想の古典の再解釈からの文脈(民族系の周縁思想):この辺は自己啓発書での根拠としてかなりありますよね。「・・・の教え」的な思想フォーマット群です。また、本人が思想的でなくても、その言動が古典を反映しているのもアウトサイダー思想でしょう。マザー・テレサはその典型かと。
SFプロトタイピングなどの未来像からの文脈(幻視系の周縁思想):まさにSFなんかは物語化してる分、思想っぽくないけど、将来への「見通しの良さ」への貢献度は高い。SFの参照だと、小生の視点の偏りがあるけど、テッド・チャン「あなたの人生の物語」や、フィリップ・K・ディック「高い城の男」など、十分にアウトサイダー思想でしょう。
・社会周縁のアウトサイダー(ブラウン)
日記などの日々のさりげない出来事への洞察からの文脈(素朴系の周縁思想):日常の活動に貢献できる思想って、最も身近であり、かつ、繰り返されるものです。素朴というより、感情に直接働きかける即効性の高いものと言えます。古くは宮沢賢治だったり、近年なら相田みつを。詩的なメッセージに託された理解ではなく、共鳴に焦点があるのが素朴系の特徴のようです。小説まで広げるなら、ミヒャエル・エンデもこのあたりか。
コンサルティングなどの課題への対処からの文脈(ストリート系の周縁思想):世界が複雑になればなるほど、人々の抱える課題も複雑になって、それぞれに新たな視点、新たな思想が求められます。次の「見通しの良さ」が提示され、人々がゆらぐならアウトサイダー思想です。養老孟司「バカの壁」から、水野敬也「夢をかなえるゾウ」あたりまであります。
試しに、アウトサイダー思想を、図表183のアート領域図に置き換えたものが上記の図表185。外郭にアウトサイダー思想が来るわけですが、中央には学術的(アカデミック)な文脈の思想群がきます。過去からの知の蓄積からなる思想たちです。
そして、アート・ブリュットの代わりになりそうなのがあるかな?って対称性で考えてみました。で、アカデミック視点で大衆化する思想群(Academic popular thought:名前つけてみたよw)ってあるなって思ってます。リンダ・グリットン「LIFE SIFT 人生100年時代」やユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」とか。日本だと浅田彰、国府功一郎、千葉雅也などが語る一般書籍での思想が入るのだろう。あなたの視点からは誰が入るのかな?
追記すると、アール・ブリュットは中心に向かうベクトルだけど、アカデミック視点の大衆向け思想は外側に向かうベクトルなので、同型とは言えないな。しかし、アウトサイダー領域を繋ぐ部分としては共通(同型ではないけど同相)と試考してみました。
◼️生活思創の居場所について
こんな感じでアウトサイダーアートの系統をアウトサイダー思想の系統に転写してみました。これを見取り図にして、生活思創がどこにいるのかを押し込んでみます。
小生の試考する生活思創は、家族生活に記号接地しながら、社会的カテゴリー越境して「見通しの良さ」を目指す、というものです。あー、できているかは不問だよ。アウトサイダーだと思って油断してたら、ビッグネーム並べすぎだしw
言葉を足します。
生活思創はアウトサイダー思想の中でも「ストリート系」です。しかし、その大元には生活があり、不登校の娘からの教育観への揺らぎが起点になっています。「自己治癒系」がコアにあるのです。最近は、不登校上等じゃん、って思ってるので、気分は少しづつ、左から右側に視点が移ってきています。それでも、家族を中心とした生活への記号接地から離れることはありません。
ストリートアートも、バンクシーの反戦だったり、キース・ヘリングの反ジェンダーバイアスだったりと言った切実なテーマを持ってないと、本当に単なる上手な落書きでしかないのです。
せっかくなので、この延長線上に生成AIの役割を載せてみます。生活思創では小生のバディです。シーズン4までを振り返ると、文化周縁の知識整理を生成AIが担ってくれてますね。ヤスハラは、文化周縁の知見を生成AIでカバーしているなと自覚するのです。
◼️生活思創で目指したい小生のスタイル
生活思創の話から、それを推し進めている小生という人の話も棚卸ししてみます。自分のためにね。生活思創家なんてヨタなポジションがあるとして、そのロールモデルはいるのか?、そんな自問に答えてみます。
そもそも、こんな「無人島上陸」のような世界に参照できるような人物なんかはないだろう、と思ってたんですけど、最近、見つけたのです。いや、見つけた気がするかな?
ちょっと前の珍事ですが、2017年に東京大学の地下食堂の壁に大きく飾られていた著名な現代アート作品が廃棄された、っていう出来事がありました。覚えてます?
この話、「アートは知性に必要ない」ってな東大への皮肉が横行したので、別の意味で覚えている方も多いかと思われます。東大は辛いねw
この作者が宇佐美圭司なのですけど、ここで語りたいのは彼の絵ではありません。本題に繋がるのは、宇佐美圭司の著書『絵画論 描くことの復権』です。
宇佐美圭司は画家でありながら、アートを言語化して思想的な視点を提供できる稀有な人物です(でした)。「絵画論」は、「すごいな、画家が美術評論家以上に深いところから、見たことのない風景を理性的に語っているぞ」、っていう本です(あくまで個人の感想です)。
脱線させてもらうと・・・
モンドリアンとデュシャンを持ち出しています。この二人の作品をベースに、「表現の決定因に感性が関与する度合い」で言うと、限りなく1から0に近づこうとしたのがモンドリアンで、逆に、0から1に近づこうとしたのがデュシャンだった、という説明があります。少し西洋絵画や絵画史に詳しければ、「モンドリアンとデュシャンに対称性を見れる人」にシビレると思う。で、シビレた訳です。
・・・そんな唸りもありで、本題へ
宇佐美圭司はアートでは主流の領域にいる人でも、思想(絵画論だとしても)ではアウトローにいます。でも、画家が他者の絵をメタ視点で語り、自分の画風が持つ独特の視点と重ね合わせるわけです。こういうのって真のカテゴリー越境じゃないかと思うのです。書いているもの、発言しているものだけがカテゴリー越境するのではなく、人物自体がカテゴリー越境した存在になって、人々に「見通しの良さ」を提供するっていうのは・・・、うーん、敬意しかない。
この宇佐美圭司のスタイルは、生活思創のロールモデルっぽいところがあります。「生活者自身が生活思創を語る」ってことです。他の思想家や生活カウンセラーが、生活者に「見通しの良さ」を提供するのではなく。
あと、ジョセフ・コーネルなんかも気になる一人です。「絵も描けず彫刻もできずに芸術品を作り、映画カメラの使い方も知らずに映画を作った」彼は、哲学にも宗教にも縁遠いままに生活思創なるものを押し込もうとしている自分を勇気づけてくてれます。
アートの世界に紛れ込むのにスキルが要らないなら、思想の世界に紛れ込むのも特別なスキルは入らないはず・・・?w
Go with the flow.
参照本(今回は小生の気に入っている美術関連の本で、生活思創を組み立てております)
『アウトサイダー・アート 芸術のはじまる場所』,デイヴィド・マクラガン(松田和也訳):青土社2011
『絵画論 描くことの復権』 宇佐美圭司 出版社:筑摩書房 1980
『コーネルの箱』チャールズ・シミック(柴田元幸訳)文藝春秋2003
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