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小澤メモ|NOSTALGIBLUE|思い出は青色くくり。

18 遠藤文学の金字塔『沈黙』のオッサン感想文。

旅と同時進行する読書。
東シナ海を望む長崎県西彼杵半島南西部。そこは、隠れ切支丹の里と呼ばれていた。作家の遠藤周作さんの代表作のひとつ『沈黙』の舞台ともなった場所に建つ、遠藤周作文学館。著作の数々を手に取り、長崎旅行中、チンチン電車の中で、公園で、教会で、浜辺で、読書に耽った。『沈黙』 (新潮社 1966年)を読み進めていく間、ずっと感じること。それは、 冷たい雨に打たれながらぬかるんだ泥の轍を歩く感触。鉛のようににぶい光を抱えた空。地下の穴から聞こえてくる呻き声。ぼそぼそと洩れてくるオラショ。音にならない声や力。何度も何度も表れては消える心の揺れ。日本人でなくても、キリスト教徒でなくても、神の沈黙について考えさせられ、問いかけられてくる。その感覚が、読了するまでずっとある。日本が世界に誇るキリスト教文学『沈黙』は、もちろん聖書ではなくて、小説という長編作品だ。

映画化された沈黙。
『沈黙』は、過去には1971年に篠田正浩監督によって映画化され、2016年にはアカデミー賞監督のマーティン・スコセッシも映画化、全世界でロードショーされた。マーティン・スコセッシ監督については、イエス・キリストとユダを描いた『最後の誘惑』を1988年に制作している。公開当時、ウィリアム・デフォーが演じたイエス・キリスト像やそのストーリーに対して、各地で上映反対運動が起きるほど物議を醸した。そんな問題作をクランクアップさせた彼が大司教から手渡されたのが、この『沈黙』だったという。それから30年近くの時を経て、ようやく完成したのが、映画『沈黙 サイレンス』なのだ。劇中の隠れ切支丹の里と、実際に長崎を旅したときに小説の舞台となった隠れ切支丹の里で思い描いた作者の姿をシンクロさせていく。さらには、役人の弾圧をかいくぐってオラショを唱えた人びとの祈りを思い描いてみる。もっと遡って、この地へと初めてやってきたパードレの顔を考える。イエスのような強くて真っ直ぐな目をしていたのだろうか。それともマリアのようなすべてを赦してくれる優しい目をしていたのだろうか。

初稿は日向の匂い。
『沈黙』の物語は、17世紀初頭、島原の乱が収束して間もないころ、ローマにもたらされた1通の報せによってはじまる。キリスト教が激しく弾圧された日本の地で、イエズス会の司祭フェレイラが棄教したという。それを聞いた彼の愛弟子、ロドリゴとガルペは日本に潜入することにした。途中、マカオに寄港し、そこで案内役をしてくれるという日本人が現れる。それがキチジローだった。作者である遠藤周作は、キチジローに対して何を思いなぞらえていたのか。同時に作者自身やこちら日本人の中にもキチジローを見出していたのか……。そういえば、遠藤周作文学館には、『沈黙』にまつわる数々のエピソードやラフも収録されている。興味深いものばかりなのだが、どうやら作者は当初、作品のタイトルを『日向の匂い』と決めていたらしい。物語のあとがき(後日談)があるとすれば、そこでロドリゴは縁側に腰をおろし冬のひだまりの中、ほっとするような感覚になることだってあるのではないだろうか。そうであってもいいのではないだろうかという、遠藤周作の思いが込められたタイトルだった。最終的には、編集者の申し出により、タイトルが『沈黙』になったという顛末もそこで知ることができる。長崎には遠藤周作(キチジローやロドリゴたち)が歩いた跡が、まだ数多く残されている。ぜひ、読了したならば、長崎を巡る旅をオススメしたい。18


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