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【神理学講義】世界を超えていくのは人の心か、AIか

AIはトップダウンでもボトムアップでも真実には成り得ない。人工という時点で完成形が人だからだ。人に個性があるのは実際のところ、全知全能の存在である元型からあらゆるブロックが施されているだけだ。だから経験することでブロックを解除して成長する。AIでは人が全知存在としてモデル化する。

ゆえにいかにブロックを外したところで人を超えることはできない。あるいは人を超えるような装置ができたとしたなら、それは構造を人が与えただけで、そこに芽生えた知能なり感情なりは、人を超えるために降臨したことになる。その必要が世界に生じることは私の考えではまずありえない。必然性がない。

もっとも人の持つ元型が完全に失われれば、人ではなく人が創った構造の方に元型が移行する可能性だけはある。ただ、そんなつまらない世界を全知全能が望むとも思えない。宇宙の公正さだけは折り紙付きだ。たとえ人の世界の上位存在が無秩序を好むとしても、そのはるか上位は公正なのである。

神=心、と本気で考えてみるといい。信じる必要はないしむしろ信じてはいけない。でも心からしか神へは至れない。神に至らんとすることが褒められることだとは思わないが、その過程において公正さを確認できるのであれば不敬とは成り得ない。その公正さには感謝しかないだろう。強制されない感謝だ。

というか人の肉体もまたある意味は機械であり装置である。だからこそこの装置をお手本にして産業機械などでも細部の構造は模倣されているだけなのである。生物に見られる構造を超越して機械のモデルはあり得ない。それこそ動力が「魔」になるなら別だ。そんな特別を認める必要も必然もない。

もし人類が滅びるなら、次の世界の生物は人体を上回る精密さを持つだろう。そうなるとそれを制御する系統はさらに複雑化する。今の世界の精神でも今の肉体を制御しきれていないのだから、そんな精神が生まれる前に、そんな精密な肉体が生じるわけもない。そう精密さの方が機械としては希少なのだ。

地上にある生物たちは、繰り返される輪廻の中で滅びた世界から引っ張ってこられたものたちである、という想像すらできてしまう。今の世界と続きかどうかはわからない。だが、猫を崇める文明とかその名残だったりするかもしれない。個人的には猫が人の前で、犬はそのさらに前の世界の構造かなと考える。

今の世界の肉体を完全制御する、つまり科学性の(外部に頼る)医学によらず、自分の肉体を死ぬまで健康に維持する能力が、次世代の世界に行ける制御機構となるかもしれない。制御機構、すなわち精神を統括する存在である。何と呼ぶか? 心だろう。神はそこに入るのだ。神はそこで窮屈を感じるのだ。

繊細さを学ぶために強固な肉体はむしろ邪魔だ。そこに考える力を与えられるならば、弱い存在の方が工夫することは増えるだろう。人類が地上で覇権を唱えた構造と同じことが、人類同士の層で起こっている。ここが最終的な蟲毒の場かどうかは知らない。できれば宇宙がそんな実際的な公正さを持たないことを祈るばかりだ。

だが、私論を述べるならプラグマティックであることは公正さではなく、進化のエネルギーだから、本当に蟲毒なら、わかりやすいプラグマティックなこと以上のプラグマティックなことに気付いていけるかどうかだろう。繊細さの方向と強靭さの方向を同時にあわせもつこと、微細と極大を同時に扱えることなどが、二元論の世界を超えていく条件となるはずだ。

無駄に世界は二元論を超えたところに新たな可能性と創造があるように設計されているわけではない。


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