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自分の履歴書⑤ 中国大連の日系企業に転職

この記事は、中国に行くことを決めてから大連の企業に就職した記事です。

なぜ中国か

前回の記事でも少し触れましたが、中国に行く目的は3つです。
1つ目は、起業に興味がありました。私が働いてきたIT分野は不特定多数に何かを伝えるために最も適した手段。人口の多い中国で何かできないかと思っていました。起業に興味を持った経緯としては、前職で会社上場によりストックオプションを売却した人が独立していくのを目の当たりにしたこと、もう一つは自分の父、祖父共に起業していたからです。

2つ目はコミュニケーションです。仕事をしていく中で最も課題に感じていたことはコミュニケーションの難しさでした。外国語を学ぶことでコミュニケーションをゼロから始められる、何かがリセットできるのではないかと思っていました。

3つ目は、前回の記事も書きましたが中国がこれから来ると思っていたためです。これにはもう一つ理由があります。
ケンカをする時は刀の柄を握れ。これは退職した会社の社長が言っていた言葉です。柄を少し振れば刀の先端は大きく振れる、刀の先端=様々な物事に振り回される商売はしてはいけない。物事を動かす大元、中心となる商売をするべき、という意味合いです。

良くも悪くもメイドインチャイナが増え続ける中、中国は物事の大元を握るのでは、と思っていました。資源大国でありながら世界の工場でもあったためです。

なぜ大連にしたか

中国に行くことに決めてから、どのような企業に就職するかを考えました。留学は考えていませんでした。語学は手段として使いたいだけで翻訳業を目指している訳ではなかったので。

エリアは当初、漠然と上海や北京の大都市にと思っていました。ただ、調べていくうちに分かったのは大連という場所が、日本、欧米の企業が進出して盛り上がり始めているということでした。当時、BPO(ビジネスプロセスアウトソース)という、ルール化できる仕事は人件費の安い国にアウトソースしましょう、という仕事の流れが確率されつつありました。もともとは製造工場などが主流でしたが、プログラムやデザインなどもアウトソースされ始めていたのです。このような経緯で大連をメインに求人を探すことにしました。

当時、転職サイトに多く掲載されていたのは、工場系の管理職で中国語必須というものと、中国語は必須ではない日本語教師。そんな中で、とある日系IT企業が募集していたのが半分は中国語学習、半分は仕事という良いところ取りの求人でした。一見美味しい仕事のようにも思いますが、給与が現地価格でだいたい月収4〜5万円くらい。安価に日本人を雇用できるのですから、企業側はかなり美味しいはずです。それでもこの求人は魅力的だったので応募して採用いただきました。

中国へ!

就職先が決まり、数少ない友人や個人的に仕事を発注してくれていた方々に挨拶をしました。とある方からは、成功だけが成功ではない、とメッセージをいただきました。失敗を失敗と捉えるか、次のステップとしてバネとするか。もちろん自ら失敗を選ぶ人はいませんが、そういう場面で窮地に立たされることで価値観が変わったりするのものだと。

挨拶をしていて気づいたことは、上場企業を辞めたと伝えた途端に音信不通になる人がチラホラいたことです。私という人間ではなく、ステータスとの関係性だったのでしょう。とはいえ、私自身も実は会社のネームバリューに寄りかかっていたのだと会社を辞めた時に気づいたのです。結局お互い様ですね。

そして中国へ!
いつまた日本に帰国するのか分からない土地へ一歩を踏み出した時は、旅行とは明らかに違う異世界感を感じました。到着後、ここでは書ききれないほどたくさんの価値観や生活習慣の違いがありました。

当時の中国は、注文しても来ない、全く違うものが届く、時間を守らない、こんな状態でした。人ってここまで大らかでも許されるんだ、という境地にたどり着くと中国の生活はとても自由快適になり、日本的な考えがむしろ窮屈に感じる、という別の価値観が生まれました。ただ、この価値観にたどり着けない日本人は多くいました。
このような日本人に共通しているのは、中国人と同じ目線に立っていない点です。中国の悪口ばかり言っていて、そんなに嫌なら日本に帰れば良いと思っていました。
話がちょっとズレますが、日本に住んでいて日本の悪口言う人って結構いますよね。こういう人達も日本が嫌なら海外に移住すれば良いのに、と思います。

日本人同士で群れないようにする

会社が借り上げたマンションに2人1組でルームシェアして生活していました。同じ中国に興味を持った人間同士なので、話が合い盛り上がりました。自分たちの部屋が日本人のたまり場になり、毎週末は飲み会をしたりしていました。皆、紆余曲折の末に中国にたどり着いていて、その経緯を知るのはとても興味深かったです。一方で、自分は日本人と仲良くなるために中国に来たのではない、と明確に線引きをしていました。冷徹に思われていたかもしれません。
職場での語学学習の他に、日本語を勉強している学生と相互学習のようなことをしていました。その学生とは勉強を教え合う相手を探すマッチングサイトで見つけました。職場の中国人は皆日本語がペラペラだったので、職場以外で探したのです。日々生活する中で、嫌でも中国語を話さなければならないシーンが多く、語学は日々上達していきました。私にとってライバルは日本語を話せる中国人でした。

中国人の貪欲さを目の当たりにする

せっかく大連に来たので、会社の仕事以外にアウトソーシングの現状を知る機会を作るようにしました。2006年時点で、デザイン関連でもかなり多くの業務が中国に流れていました。写真の切り抜きなどの単純業務をはじめ、雑誌のレイアウトのようなデザインセンスを必要とする業務も。
中国は人口が多いので、作るチーム、チェックするチームという体制になっていて、よくあるIT企業のオフィスでありながら、この流れ作業はまるで工場のような雰囲気すら感じました。そして、中国人達は単純業務を通じてデザインを学び活かそうとしていたのです。街中はまだまだデザイン的には微妙なものが溢れ返っていましたが時間の問題だろうと思っていました。

このような状況下で、日本は今後どうなるのだろうかと外から客観視するようになりました。アウトソーシングする代わりに、新しい価値を常に生み出し続けないと中国に飲み込まれる。この危機感に日本はまだ気づいていないのではないかと。

テレアポでトップを走り続ける

会社ではバグチェックとテレアポの2種類があり、私はテレアポを選びました。理由は今後独立するにあたって営業スキルは必須だと思っていたためです。また、コミュニケーションが苦手という負い目を、失敗しても人目を気にしなくても良い海外で克服したいという思いもありました。最初はうまく行かなかったのですが、いつの間にか成績トップになっていて、自分でも驚きでした。
自分がこだわった点は2つありました。一つは元気よくハキハキと話さないことです。自分が電話先の相手の立場で考えると、営業電話のトークって気持ち悪いと思うに違いないです。ですので、友人に話すようにできるだけ自然に親身に話しました。もう一つは、たくさんの電話をかけているうちに、話の傾向に一定のルールがあることに気づいたので、こう話してきたらこう切り返す、という独自のフローマップを絵にしていたのです。

対面だと緊張するのに、テレアポだとなぜ大丈夫なのかを自分なりに考えました。一つは人間から入ってくる情報が少ないこと。対面だと目つきや体の動きから、様々な感情的な情報が入ってきます。少し退屈に感じているな、とかイライラし始めているな、とか。空気を読んでしまうのです。テレアポではその些細な情報に振り回されず、聴覚だけに集中すれば良いのが功を奏したのだと思います。

会社が事業廃止になる

約半年ほど経った時、日本の親会社に問題が起き大連支社も立ち行かなくなりました。社員は提携企業への出向か退職かを選ぶ流れになりました。20代で会社が傾いた経験がある身としては、またか、、と思いました。
私は独立を志していたので退職を選びました。中国語はまだまだ心許ない状態でしたが、特に中国で大事なのは伝えたい気持ちだと思っていました。独立しても何らかのかたちで中国語は勉強すれば良いと思いました。強い思いで退職したのに、まさか海外でこんな目に遭うのはとても残念でした。それでも人生とは窮地の時こそ、きちんと意思決定をしなければならないものだと実感しました。

社会人20代後半その2へ続きます

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