見出し画像

かなしみで繋がる|ソウル日記7


前回までのソウル日記(抜粋)▽▼▽



2024.5.14(火)

ソウル最終日。宿から一本道をまっすぐ歩くと、戦争と女性の人権博物館へたどりつく。日本の兵士が性奴隷としてさんざんにふみにじった、韓国の女性たちのことを、しるための施設。自分のうまれた国がしたことを、あまりにしらなかった。すこし時代と場所が違うだけで、自分もおなじ経験をしたっておかしくないことなのに、あまりにしろうとしていなかった。

博物館は住宅街のなかにひっそり、無言ですっと建っていた。考えぬかれた造りがすばらしかった。はじめに、地下に潜る。うす暗い湿気たような場所で、背すじに寒いものが走るようなその場所で、彼女たちの味わったたとえようのない苦しみを追体験するかのようで、けれど容易に追体験できるものなどではないと、突きつけられる。

奥まったひとつの部屋がある。内側にびっしり、被害にあった女性たちの当時の写真がある。文字も書かれてある。それらを見たい、しりたい、という気持ちがうずく。その部屋には、とても小さな窓のような入り口がひらいているが、中へ入ることはできない。無力なままで入り口に立ち、痛いくらい想像せよということだ。わかりたくてもわかるはずなどない苦しみだということを、想像せよと。

彼女たちにとって人生とは何であったかを、しりたいと思う気持ちと、そう簡単にしることなんてできないという厳しさのはざまで、心に錨をおろして立とうとする。想像するしかないことで、どこまで心を寄せられるのかと思うのに、想像にたやすく限界がきてしまい、なさけなくて胸がつまる。


博物館の外の壁に来場した人からのメッセージが書いてある



階段をあがっていくと、窓があり、少しづつ光が入ってくる。その壁には、女性の悲痛なさけびがふるえる手書き文字で、ハングル、日本語、英語で書かれてある。ひとりひとりの写真も、とてもちいさく飾られてある。ひとつひとつ、読んでいった。声がすぐ耳元で、きこえてくるように感じる。

二階にはさまざまな資料をみせる展示室とベランダがある。ベランダをでると、すぐむこうにソウルの街並みがみえる。亡くなった人たちの名前と日付の書かれたレンガが、それをさえぎるように建つ。献花と献金ができる。これくらいのことしかできないのかと思う。手持ちの紙幣を入れ、手縫いの黄いろい花を、ひとつ手向けた。しばらく光を浴びながらそこにいた。

二階の展示を見終え、こんどはべつの階段を降りていくと、ちいさな庭を通り、さらに階段を降りる。そこに、ベトナム戦争で韓国軍が日本軍とおなじことを現地の女性たちにしたことの反省を、展示にしてある。ベトナム女性たちの悲痛なさけびが、先ほどまでの韓国の女性たちのさけびとかさなる。



慰安所を使った日本兵の手記



詩人の金子光晴さんが雑誌の対談で、こう言っていた。「自分が生きているということが、人間全体とどういう関わりを持つのかへの問い」を持たなくてないけない。人間への、眼差し。私のその一部ということ。私の前にもあとにも、これはつづくということ。

ソウルへ来て、いくつかの博物館や出会った人たち、街のようすなどから、近現代の韓国の辿った歴史にふれた。そうしながらなんどか、急に足もとがぐらっと崩れおちるような、体の軸をひき抜かれるような、どうしようもない感覚におちいった。私はこれを、どう受けとめたらいいのだろうという感覚。これをしった私は今からどうすればいいだろう。この世界を、どう生きていけばいいだろう。

いっぽうで国や、言葉や文化というちがいを表すものを剥がしてみたとき、人は丸裸で、かなしみで繋がっているとも感じた。おなじようなことを経験していない自分にわかるはずなど到底ないのに、わかるというのとはべつの、自分の思いの行く先みたいなものが、だれかの思いの出どころに繋がってあるとでもいうような、言い表せないけれど、断ち切られてなどいないという、そのような感覚。

そして人という生きものが、かなしみで深く繋がっていて、だからこそよろこびで繋がることができるのだと、心はどちらか一方だけというのではきっとないのだと、そう思った。かなしみで繋がっていることを感じるとき、考えることをやめない。問うこともやめられない。現実を見つめて、前にすすむにはどうしたらいいのか、ひたすら考え抜くしかない。かなしみはきっと、なければないほうがずっといいけれど、過去をふくむ目の前の、もしかしたら未来もふくむ目の前のかなしみと自分は繋がっているのだということを、大切にしたい。それによって、今を、人間を、見つめていくということ。



入館チケットと購入した本
館内のあかるい庭



飛行機の時間がある。急ぎ足で宿へ帰った。チャントルさんにお別れして、空港へむかった。自分の国へ帰るんだと、思った。国。そんなものはほんとうには、存在しないのに。空港の二階、ひろびろした韓国料理屋に入った。いろんな人がいた。無心にごはんを口へはこんだり、ぼうっと窓の外の空をながめたり、子どもの面倒をみたり。みんなどこかから来て、どこかへ帰る。イイダコの辛い炒めものとスープの定食をえらんだ。パンチャンに、きゅうりと玉ねぎの酢のもの、黒豆、キムチが二種。韓国料理は辛くて、おいしくて、からだがカッカとして、お腹に力がたまる。夕方の便で離陸した。

帰国後、文フリの帰りに横浜伊勢佐木町の韓国料理店に入った。テーブルに座って、野菜の皮むきをする韓国人のおかあさんと、配達にやってきた東南アジア系の男性がひとこと、ふたこと、片言の日本語で話した。ふと、日本語なのはここが日本だからで、それ以外にはないのだと、そのことをみょうに感じた。日本という国だからという、それだけで。

かれらにも国がある。ないのにある。かれらがここにいる理由は、いろいろにある。平和という言葉は、いつも自分から遠かった。小学生くらいからずっと耳にするのに、いちども自分ごとにならなかった。平和という言葉の器に、なにを入れて使えばいいかわからなかった。でもごく最近、ほんとうに最近、そのずっと浮ついたままでいた言葉をほんのすこしだけ地におろして、わずかに手繰り寄せて、使えるような気がする。その器に何を入れたいのかが、見つかったような気がする。



ホストのチャントルさん。また会うと思う





お読みいただきありがとうございました。 日記やエッセイの内容をまとめて書籍化する予定です。 サポートいただいた金額はそのための費用にさせていただきます。