近畿地方の石造物⑨:高野山奥の院町石塔婆(二十番石、秋田城介泰盛造立)

名称:高野山奥の院町石塔婆

伝承など:安達泰盛造立、安達盛長、景盛供養塔

所在地:和歌山県伊都郡高野町 高野山奥の院


高野山の各地で、町石塔婆と呼ばれる石塔が見られるが、これは鎌倉中期に高野山金剛峰寺の金堂の壇場から奥の院の弘法大師廟まで、また金堂から麓の慈尊院までの道に一町ごとに立てられた道標であり、町石塔婆は高さ三メートルほどの石柱であり、上部が五輪塔の形をなしている。

町石塔婆は奥の院までは全部で三十七基、慈尊院までは全部で百八十基あるが、この数字は曼荼羅を表現しており、奥の院までの町石塔婆に弘法大師廟を加えた三十八は金剛界の、そして慈尊院までの百八十は胎蔵界の仏の数と同数である。

このうち、奥の院の弘法大師廟までの道中には、文永五年銘を持つ秋田城介安達泰盛造立の町石塔婆が二基あり、それぞれ曽祖父の安達盛長、祖父の安達景盛の供養のために造立したと言う趣旨が刻まれている(写真一枚目がこのうち安達景盛の供養塔で町石塔婆の順番では二十番石)。

安達氏は鎌倉幕府執権北条氏と代々姻戚関係を結んでおり、安達泰盛は北条時宗の義父(泰盛の養女が時宗夫人)で当時の幕府内の実力者であり、町石塔婆造立に尽力した人物である。

当初木造であった塔婆は、鎌倉時代中期に石塔婆となり、その後安土桃山時代、戦国時代、大正時代に何度か改修されているが、鎌倉時代中期の町石塔婆も多く残っている(二枚目、三枚目)。


なお、秋田城介泰盛造立の二十番石の背後には、武田信玄・勝頼の墓所があるが、これはどちらも武田家滅亡後の後代になって造立された五輪塔である。


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日本国内の石塔・石造物に関する記事と、歴史ドラマ・映画のレヴューを中心に書いています。

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