歴史の扉Vol.12 カレーの世界史
カレーライスは日本の「国民食」と呼ばれる。もちろん、「カレー」は日本由来のものではなく、「本場のカレー」というべきものがあろうことも知った上でのことだ。日本のカレーライスを「インド料理」だと思って食べる人など、そうそういないだろう。
ただ、カレーが「インド料理」なのかというと、これまた難しい。
「カレーという料理はインドにはない」という話は割合知られるようになったが、そのルーツは複雑だ。
ムガル帝国がインドに肉料理をもちこんだ
そもそも菜食主義が一般的なインド各地の料理に、肉という食材を持ち込んだのは、ムガル帝国の支配層が中央アジアから連れてきたペルシアの料理人たちだった。
ムガル皇帝の「肉が食べたい!」という欲望が、ビリヤーニーに代表されるインド化されたペルシア風料理を誕生させたのだ(L.コリンガム『インドカレー伝』第2章)。
「カレー」の誕生にはからずも大きな役割を与えたのは、タージ・マハルの建設で知られるシャー・ジャハーンだ。彼は1630年代に南インドを征服すると、中央アジアの肉々しいムガル料理が、カレーリーフや唐辛子、タマリンドやココナッツといった南インド的要素とミックスされる環境が整った(L.コリンガム『インドカレー伝』153頁)。
南インド的要素をとりいれたムガル料理は、ラクナウに都を置くアウド藩王国(18世紀にはムガル帝国を凌ぐ国威をみせたが、19世紀初めにはイギリス東インド会社に従属し、1856年にイギリスによってとりつぶされた)で「コーラマ」とよばれる料理に発展する。インドの料理人は、イギリス人の好みに合うようにレシピを変え、「コーレマ」「コルマ」と呼ばれるものに単純化されていった。これはヨーグルトに漬けた子羊肉を使ったもので、ここまでくれば見た目は今の「カレー料理」だ。
「カレー粉」によるカレーのイギリス化
インドに赴任したイギリス東インド会社は、「とろみのあるソースかグレービーソースを使う、インド各地の香辛料の効いたあらゆる料理の総称」を、ポルトガル人の「カリル」「カリー」という言葉を借用して「カリー」(curry、以降「カレー」と表記する)と呼ぶようになった。これは元をたどればポルトガル人が、南インドのカンナダ語とマラヤーラム語で味付けのための香辛料を指す「カリル」(karil)という語から借用した語だった(L.コリンガム『インドカレー伝』183頁)。
イギリス人は総称したからといって、地方ごとの違いに気づいていなかったわけではない。イギリス人は、自分たちの好みに合うようにイギリス化した現地料理を「カレー」と一括りにするようになっていったわけだ。イギリス化したレシピとは、ギーやヨーグルトのようなクリームは少なめにする。さらに、クローヴやカルダモンのような香りの強い香辛料を控えめにし、コリアンダー、生姜、胡椒は増やしたものだ。
イギリス最古のカレーレシピは、1747年にハンナ・グラッセの著した『The Art of Cookery made Plain and Easy』と考えられている。初版では黒胡椒とコリアンダーシードしか使われていない、シンプルなものだ。同世紀にはいよいよ複数の香辛料を配合した「カレー粉」が開発され、1850年代にはカレーレシピに欠かせないものとなった。イギリス東インド会社のベンガル総督(在任1773~1785)だったヘイスティングズが1772年に持ち帰ったものが元との説(日本大百科全書)もあるが、カレー粉の普及はそれより早かったようである。
香辛料を混ぜた粉なんて、インドでだって使われていると思うかもしれない。たしかにあらかじめ配合された香辛料は、インドではマサラと呼ばれているし、食材店にいけば売っている。だが、なんでもかんでもマサラというわけにはいかないようだ。
かつてスリランカ人の友人にキッチンでカレーをつくってもらったときのことを思いだす。数十種類ものスパイスを、てきぱきと決められたタイミングで、手際よくフライパンに放り込んでいくのだ。「決められた」タイミングは、母に直々に教え込まれたものだという。思わず圧倒される手さばきだった。
『インドカレー伝』のコリンガムも次のように述べる。
カレー粉が本場で避けられる理由は上記のほかにもあるが、こうしてインドの多様なカレーは、粉を通してイギリス化されていったわけである(ちなみに日本を代表するスパイスメーカーである「S&B」の表記は、世界ではじめてカレー粉を商品化した「クロス・アンド・ブラックウェル社」(C&B社)を意識したものといわれている)。
どうしてそこまでイギリスはインドの料理を取り込もうとしたのか? その背景には、イギリス料理に単純な味付けしかなかったことも関係しているだろうが、大前提として、18世紀のインドはイギリスにとって「あこがれ」の存在だったことを知っておく必要がある。
経済的にはキャラコとよばれる質の高い綿織物が18世紀のイギリスで一世を風靡していた。
こうした貿易事業で巨富をなした者もいた。彼らのなかには、帰国後もインド風の生活をおくる者もいて、世間から「ネイボッブ」と揶揄された。全員がそうというわけではないが、上流階級としての教養に欠け、インドで違法すれすれのやり方で蓄財に励んだ者もいたから、そのやり口に白い目がむけられたのだ。ネイボッブの多くは、かせいだ金で田舎の屋敷を買取り、議会の議席も手に入れた。伝統的な上流階級(ジェントルマンと呼ばれる)との関係も悪くなるわけだ。
だが、19世紀にかけて産業革命がすすみインド支配が強化されると、きちんとした教育を受けたジェントルマンの次男、三男までもが、役人や商事会社の社員としてインドに渡るようになると、ネイボッブに対する白眼視は薄らいで行くことになる。イギリス東インド会社の特権は順次廃止され、イギリス人は官民を挙げて世界各地に勢力圏とビジネスチャンスを見出していく時代となった。
こうしてカレー粉を用いるカレーは、イギリスの植民地支配、自由貿易体制を通して、「開港」とともに日本に到達していった。イギリス人は世界各地に「イギリス化されたカレー」を持ち込んで行ったのだ。これをもとに日本は20世紀にルウとレトルトカレーを編み出し、カレーの歴史に新たな一ページを付け加えていくこととなる。
カレーの持つ「折衷力」
カレーライスはしばしば、日本がもつ「他国のものを取り込み、なんでも折衷させる力」の例としてもちだされる。しかし、ルーツをたどってみると、カレーの歴史そのものが、折衷の積み重ねによって成り立っていることを知る。イギリスにもチキンティッカ・マサラという「イギリス料理」があるが、これはインド人の料理人が客の要望にこたえて生み出したものだ。それが今やインドのレストランでも供せられるようになっている。「折衷」は国柄ではなく、カレーそのものに宿る力であるようだ。
今なおカレーは国境を越え続け、カレーにまつわる情報も増え続けている。日本の「インドカレー」の多くが、ネパール人労働者によってになわれ、大きなナンのようなメニューが日本においてつくられた伝統だということも、最近では知られるようになっている。
南インドカレーへの注目の高まりのように、健康志向も相まって「本場のカレー」を求める動きもさかんだ。
日本のカレーチェーン「CoCo壱番屋」が、ニューデリー南郊のグルガオンに旗艦店を出したことも話題を呼んだことも記憶に新しい。今後もカレーの魅力は国境を越え、新たなトレンドを生み出し続けていくことだろう。
参考
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