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12.2.1 西欧勢力の進出とインドの植民地化 世界史の教科書を最初から最後まで

西ヨーロッパの商業勢力の活動が本格化する17〜18世紀にかけ、インドでは各地で政治・経済活動が活発化し、地方の勢力が力をつけていった時期だった。


ヨーロッパ各国の東インド会社は、だからこそインド各地に商館を置き、商業活動に従事。


このうち、オランダ東インド会社が、現在のインドネシアのジャワ島を拠点として、アジア諸地域をむすぶ取引に重点をおいて活動したのに対し、イギリス東インド会社はインドのマドラス(現在のチェンナイ)やカルカッタ(現在のコルカタ)などに商館を設置、フランスの東インド会社ポンディシェリ(現在のプディチェリー)を中心に活動した。


これらのヨーロッパ商業勢力がインドで扱った商品のなかでもっとも重要であったのは何より綿布であり、その購入のために金や銀が大量にもちこまれた。


このような対外交易の飛躍的拡大と金・銀の流入は、従来、農業生産物の現物での分配を基礎として成り立ってきたインド社会に大きな変化をもたらす要因となった。



その頃、最大領域を実現した皇帝アウラングゼーブが亡くなると、ムガル帝国は力を失い、かわりに各地の地方勢力が台頭して、たがいに軍事抗争をくりかえすようになっていた。
それまでもっぱら交易に従事していたヨーロッパの商業勢力も、これら地方勢力の争いにしだいに巻き込まれるようになる。

18世紀半ばからは、ヨーロッパ勢力の中で、イギリスとフランスの東インド会社がみずからこうした争いに介入して支配の拡張をもくろみ、たがいに激しく対立することとなったのだ。


そうしたなかで、イギリス東インド会社は、カーナティック戦争プラッシーの戦い(1757年)

においてフランスを破り、パリ条約(1763年)でその優位を決定づけた。


イギリス東インド会社は、つづいて、インド内部の政治勢力に対しても支配を拡大。



まず東部では、ベンガル地域ビハール地域の徴税権(税をとる権限)を獲得(1765年)している。

 このとき、ムガル帝国の皇帝が東インド会社に対して発布した勅令(1765年)を見てみよう。

……朕(ムガル皇帝)は、ベンガル暦1172年の春作期の初めより、ベンガル、ビハール、オリッサ各州のディーワーニーを無償の免租地として、この会社に対して単独名義で、かつまたこれまで宮廷に納められてきたディーワーニーに伴う課徴金の支払を要求することなく、授与するものである。……

***


南部ではヒンドゥー教の国であるマイソール王国との4回にわたる戦争(1667〜99年)に勝利をおさめた。


 


さらに西部では3回わたってヒンドゥー教勢力の連合体であるマラーター同盟(指導者はマラーター王国 国王のシヴァージー)との間にマラーター戦争(1775〜1818年)に勝利。


また、西北部での2回にわたるシク教の国との戦争(1845〜49年)にもそれぞれ勝利。



こうして19世紀半ばまでに、イギリス東インド会社はインド全域を制圧することに成功する。


ポイントは2つある。

一つは、インドすべてを直接統治したわけじゃないということだ。
支配エリアの一部を「藩王国」という名目で残し、藩王国の外交権は奪う。こうすれば、「藩王国」に支配を任せる形での間接統治が可能になるわけだ。

二つ目は、「イギリス」が支配したわけじゃなく、「イギリス東インド会社」が支配の主体だったということだ。東インド会社の財政基盤に基づいて支配すれば、イギリスにとっては “安上がり” だからね。

史料 イギリス議会におけるエドマンド・バークの演説(1783年)

……インドにいるイギリス人の若者は、実力不相応な権威と支配の酒に酔いしれ、自律した成熟さを身につける以前に一財産築いてしまうので、自然も理性も、彼らの未成熟な権力の濫用を押しとどめるいかなる機会も持ちえません。……

18世紀のインドには、イギリスから一攫千金のチャンスを求める人々がわたり、なかには一代にして富を手に入れる者も現れました。
そうした人々は「ネイボッブ」という蔑称でもって、特に1760年代~1790年代に批判の的となりました。イギリス東インド会社が、インドから得た利益を不当に着服しているとの疑念も生まれていたからです。



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