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史料でよむ世界史 12.2.1 西欧勢力の進出とインドの植民地化


1.イギリス議会におけるエドマンド・バークの演説(1783年)

……インドにいるイギリス人の若者は、実力不相応な権威と支配の酒に酔いしれ、自律した成熟さを身につける以前に一財産築いてしまうので、自然も理性も、彼らの未成熟な権力の濫用を押しとどめるいかなる機会も持ちえません。……

18世紀のインドには、イギリスから一攫千金のチャンスを求める人々がわたり、なかには一代にして富を手に入れる者も現れました。
そうした人々は「ネイボッブ」という蔑称でもって、特に1760年代~1790年代に批判の的となりました(下の図は、「ネイボッブ」たちがイギリスから女性を呼び寄せ、品定めをしている場面を描いた風刺画です)。

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インドに対する恐れ、インドからの悪影響が文明国イギリスをむしばむのではないかという不安は、インド研究の進展や、イギリス=文明⇔インド=野蛮という認識が強まっていくにつれ、19世紀にかけて次第に払しょくされていくこととなります。


2.ムガル帝国の皇帝が東インド会社に対して発布した勅令(1765年)

……朕(ムガル皇帝)は、ベンガル暦1172年の春作期の初めより、ベンガル、ビハール、オリッサ各州のディーワーニーを無償の免租地として、この会社に対して単独名義で、かつまたこれまで宮廷に納められてきたディーワーニーに伴う課徴金の支払を要求することなく、授与するものである。……

1757年のプラッシーの戦いの後、イギリス東インド会社は、ムガル帝国の皇帝によって、ベンガル、ビハール、オリッサの徴税権を獲得しました。


3.1833年東インド会社特許状法(1833年)

第3条 1834年4月22日以降、ジョージ3世治世第53年〔1813年〕の法律によって、上記の会社に継続されたところの、中国皇帝の領土との交易および茶の貿易の独占的権利は消滅する。
第4条 上記の会社は、1834年4月22日以後、できるだけすみやかに商業活動を停止し……。

イギリス東インド会社は、1833年に、イギリス国内における自由主義の高まり(「東インド会社だけがインドや中国で商業活動を独占できるのはおかしい!」という声の高まり)を背景にして、商業活動が停止されることが決定。
これにより、1834年以降の東インド会社は、インドでビジネスをする組織ではなく、インドを支配する組織に変化します。

出典



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