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11.1.3 イギリスの自由主義的改革 世界史の教科書を最初から最後まで

イギリスの政治は ”国王は君臨すれども統治せず“と言われ、議会と、議会をひきいる首相の権限が大きかったよね。
君主が勝手気ままに支配するよりも、強い団結力を生み出すことができると考えられていたんだ。

でも、国王の権限はまったくなくなってしまったわけでもなく、何か問題があれば国王は首相を呼び出して圧力をかけることができないわけではないよ。産業革命がすすんでいた18世紀末以来、政権をにぎっていたのは国王と協調する保守的なトーリ党だった。


しかし、1820年代に入ると、自由主義的な政策もめだつようになっていく。
たとえば、1824年には団結禁止法が撤廃されて労働組合をつくってもいいよということになった。
労働者が団結するのは、雇い主にとっては「暴力的に反抗するんじゃないか」と不安が大きかったわけだけれど、いつまでも禁止しているとかえって抵抗が強くなる。労働者にも自由に団結する権利があるんだということを認め、合法的な行為として認めることで決着したんだ。



また1828年には国教徒ではない人でも公職につけるようになった審査法の廃止)。
ただ、1801年にイギリスに併合されていたアイルランド出身者にも堂々と役人につけられるように、「カトリック教徒解放法」も成立した。アイルランド人はローマ=カトリック教会の信者が多かったからね。


オコンネル(1775〜1847年)らアイルランド人の運動が実った形だ。
ただ、土地をイングランド人やスコットランド人に握られたアイルランドの人々の貧しい暮らしは、まだまだ続いている。

エンゲルスが述べるように、イングランドに流れ込んだアイルランド人労働者の状況も悲惨だ。

史料 エンゲルス『イギリスの労働者階級』より
すでに行きがけの駄賃で、イングランドに移住してきたアイルランド人には何度か触れている。そしてここでは、その移民の原因と結果についてもっと詳しく見よう。 イングランド産業の急拡大は、イングランドがすぐに使える予備軍として、無数の貧窮したアイルランドの人々を擁していなければ不可能だっただろう。アイルランド人は、故郷では何一つ失うものはなく、イングランドでは大いに得るものがある。そしてアイルランドで、セントジョージ海峡の東側では強い腕に対して安定した職とよい賃金を提供することが知られるようになってから、毎年のようにアイルランド人の大群がこちらにやってくる。計算によれば、すでに百万人以上が移民してきており、毎年いまだに五万人近くがやってくるという。そのほとんどすべてが工業地区、特に大都市に入り、そしてそこで最底辺の人口を形成する。したがってロンドンには12万人、マンチェスターには4万人、リバプールには3万4千人、ブリストルは2万4千、グラスゴー4万、エジンバラ2万9千人の貧しいアイルランド人がいる[23]。こうした人々はほとんど文明を知らずに育ち、若い頃からありとあらゆる貧困になれており、粗野で短気で軽率であり、その野蛮な習慣をすべて携えてくるのだが、それがやってくる先のイングランド人口というのも実は教育や道徳性を涵養するような指導はほとんど受けていない。
[中略]4ペンス硬貨一枚でイングランドに移住してくるこうしたアイルランド人は、家畜のように詰め込まれた蒸気船の甲板に乗ってやってきて、いたるところに侵入する。かれらには最悪の住宅でも十分だ。服は糸一本でつなぎあわされている限り、かれらにはどうでもいい。靴など知らない。食事はジャガイモで、ジャガイモのみ。こうした必需品以上に稼いだら、すべて飲んでしまう。こんな人種が、高賃金などほしがるものだろうか? 大都市の最悪の地区はアイルランド人が住んでいる。ある地区が、ことさら汚く異様に荒廃していると思えるなら、探索者はまちがいなくそこでケルト系の顔に出くわす。
[中略]
アイルランド人の人生は、酒なしでは無価値であり、酒と何も気にしない気性があればいい。そこでアイルランド人はひたすら飲んで、すさまじく獣めいた飲んだくれぶりを示す。アイルランド人の南方的な軽薄さ、その野蛮人とほとんど変わらない粗野さ、あらゆる人間の楽しみに対する軽視(まさに粗野であるために、そうした楽しみに参加できないのだ)、汚さと貧困は、すべて泥酔に向かわせるものだ。誘惑は大きいし、アイルランド人はそれに抵抗できず、したがってお金があれば、それを喉に流し込んでしまう。他にどうしようもあるまい? 社会はアイルランド人を、飲んだくれにならずにはいられない状況に置いているのだから、飲んだくれるアイルランド人を責めるわけには行くまい? アイルランド人を放置して、その野蛮ぶりに任せているのだから。
イングランドの労働者はこのような競争相手に対して苦闘を迫られている。その競争相手は、文明国において最低どん底の水準にあり、まさにその理由から、他のだれよりも低い賃金しか要求しないのだ。したがって、イングランドの労働者の賃金は、アイルランド人が競合するあらゆる産業分野で、ますます低く低くならざるを得ない。そして、そうした産業はきわめて多数ある。技能をまったく、ほとんど必要としない産業はすべてアイルランド人に開かれている。長い訓練や、規則的で辛抱強い作業が必要な仕事には、自堕落で不安定で飲んだくれたアイルランド人は低い水準にありすぎる。機械工や工員になるためには、イングランド文明やイングランドの習慣を採用し、基本的にイングランド人になるしかない。だが単純でそれほど厳密でない仕事だと、技能よりも力が必要な場面だと、アイルランド人もイングランド人も変わらない。したがってこうした職業は特にアイルランド人であふれているのだ。手織り人、煉瓦職人、荷担ぎ、臨時雇いなどの労働者には、無数のアイルランド人がいて、この人種からの圧力は賃金を引き下げて労働階級を貶めるのに大きく貢献した。そして他の職業にも入り込んだアイルランド人がもっと文明的になったとしても、古い習慣はかなり残るので、重労働するイングランド人労働者仲間に対しては強い劣化するような影響が及ぼされる。特にアイルランド人に囲まれている場合にはそうなるだろう。というのもほとんどあらゆる大都市で、労働者の五分の一から四分の一がアイルランド系なら、あるいはまわりがアイルランド人の親を持つ子供で、アイルランドの汚物の中で育ってきたら、人生も習慣も知性も道徳状態も——つまりは労働階級の性質すべてが、かなりアイルランド的特徴を持つようになるのは必定だからだ。それどころか、現代史とその直接の影響が生み出した労働者階級の地位劣化が、アイルランド人の競合の存在によりさらに劣化していることは容易に理解できる。

出典: 山形浩生訳、https://cruel.hatenablog.com/entry/20150616/1434432416 、CC BY 4.0
 


「自由」「平等」をすすめる動きは、政治の世界にも波及。


産業革命によって田舎から都市への人口の大移動が起きると、今までほとんど人が住んでいなかったような都市が大都市となったり、今まで人のいた都市の人口が激減してしまったりといったケースが発生。
人がほとんどいなくなってしまった選挙区(腐敗選挙区)に候補を立てて戦略的に当選させるという、実態に合っていないズルいやりかたも見られるようになっていった。


1832年には、フランスでの七月革命の影響も受け、選挙法が改正。

このときの内閣は自由主義的なホイッグ党
産業資本家にも選挙権が拡大された。
さらに腐敗選挙区が廃止され、その分の議席が振興の商工業都市や人口の多い州に配分されたから、産業資本家が議員になるケースも増えていくこととなった。
成功した産業資本家の中は、従来の支配階層である「地主」や「貴族」と混ざり合う形で「ジェントルマン」という幅のある支配階層を形成。社会的なステータスを高めていくこと(とはいえ、19世紀前半においては、「地主階級」の存在感はまだ大きいことにも注意しよう。これについては後で)。

「もっと民主的な選挙制度にするべきだ」「労働者にも選挙権をよこせ!」という運動はその後も続いた。

それに一役買ったのが、経済学の発展だ。
たとえばリカード(1772〜1823年)は「商品の価値は、労働者を搾り取ることによって生まれる」と主張。

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急ピッチでつくりあげられていった「資本主義」の “からくり” を暴いていった。
「ならば労働者を、資本家から守らなければ」と動いたのが、ロバート=オーウェン(1771〜1858年)だ。

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労働組合を “大連合” させる作戦がとられたがうまくいかず、その後別の指導者らによってさまざまなイベントが実行されていった。

1834年には運動の方針である「人民憲章」(ピープルズ=チャーター)もつくられた。

① 成人男子に選挙権を与えること
② 秘密投票を保障すること
③ 毎年選ばれる一年任期の議会を実現すること
④ 議員に対して「財産資格」を廃止すること
⑤ 議員に歳費(さいひ)を支給すること(議員になることは無給の“名誉職”だったのだが、それじゃあ生活するだけで大変な労働者の代表は議員になれないことになってしまう)
⑥ 10年ごとの国勢調査によって調整される平等な選挙を実施すること

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しかし、組織内の足並みはなかなかそろわなかった。

1839・42・48年の3度にわたって起きた大規模な請願イベント(チャーティスト運動)は、結果的にどれも失敗。

男性の普通選挙制が実現したのは1918年と、イギリスの政治の世界では「財産を持っていない人々」への選挙権の拡大には否定的な意見が多かったんだ。



ともあれ、産業革命の結果「世界の工場」のポジションを獲得したイギリスは、この時期に産業資本化たちが、世界中で「自由貿易政策」を展開していくこととなる。

そのベースにあるのは「自由に自分たちの好きな国と自由に物を取引することが、すべての国が豊かになるために必要なことなんだ」という考え方だ。先ほどのリカードも、各国が自由に “得意分野”(労働生産性の高い分野)に特化して生産し輸出し合えば、人類全体として互いに豊かになっていくという説(比較優位説)を理論化している。



1834年には東インド会社に与えられていた、中国貿易を独占することのできる特別な許しを廃止。中国のビジネスに、東インド会社でなくても参入することが可能となった。

また、コブデン(1804〜65年)とブライト(1811〜89年)は地主の主張する保護貿易に反対。1839年に地主を守るために制定された穀物法に反対するグループ(反穀物法同盟)を結成した。

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穀物法というのは1815年に制定された、外国産の安ーい穀物が流入することで価格が下がるのをおそれた地主や農業家が議会にはたらきかけて成立させた法律で、安ーい穀物の輸入は禁止されていたのだ。

でも、安い穀物が認められないと、労働者の食費、生活費が上がってしまい、その分を給料に反映させないと労働者からの不満が出る元になってしまう。

穀物法反対論を主導したのは、多数の労働者たちを雇って資本を増殖させていた、マンチェスターの産業資本家だったのだ。

彼らは、敵を「地主階級」に設定して、こう主張する。

「穀物の輸入を阻止している地主階級はおかしい! 自由な貿易が実現すれば、安い穀物が手に入るだけでなく、われわれの生活は豊かになるのだ!」



その結果が実り、1846年に穀物法は廃止。17世紀のクロムウェル時代に制定された航海法も1849年に廃止された。


このように、政治・経済的な「自由」「平等」を推進する動きは、イギリスではフランスのような「革命」ではなく、労働者階級による運動に刺激される形で、議会で「改革」する法をつくることで進んでいったことがわかるね。



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊