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14.5.1 ナチス=ドイツの侵略と開戦 世界史の教科書を最初から最後まで

1938年3月、ヒトラー率いるドイツは、国外に暮らしているドイツ民族を「ドイツ帝国」の下にまとめようとして、オーストリアを併合

「ドイツ民族」の統一という宿願は実ったものの(「大ドイツ主義」という言葉を覚えているだろうか? 【←戻る】11.2.6 ドイツの統一)、オーストリア国民の受け止め方は複雑だ。
ナチス寄りの政党は併合を熱烈に支持したものの、ナチ党主導の併合には抵抗もあったのだ。


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さらに1938年9月にはチェコスロヴァキアのズデーテンという地方を「ドイツによこせ」と、チェコスロヴァキアに要求した。
ズデーテンにはドイツ系の住民が生活していて、彼らを「ドイツ帝国」に組み込む必要がある、というのがヒトラーの思惑だ。


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中央上のBOHEMIAがボヘミア、MORAVIAがモラヴィア。水色はチェコ人を表し、赤色はドイツ人の分布を示す。これは20世紀初めのオーストリア帝国時代の民族分布だけれど、たしかにボヘミア西部のズデーテン地方にはドイツ系住民が分布していた。
さまざまな民族がモザイク状に分布する歴史ある中央ヨーロッパにおいて、第一次世界大戦後に国境線を人為的に引いて「チェコスロヴァキア」の国境を決めたんだから、いびつな民族分布になるのは当然だ。



このズデーテン危機にあたり、イギリスのネヴィル=チェンバレン首相(下の写真のいちばん右)は、ドイツに対して強硬姿勢を強めるのではなく、話し合いによって譲歩を引き出して解決しようとした。

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この宥和政策(ゆうわせいさく)の結果、1938年9月末、ドイツ南部のミュンヘンで国際会議が開かれた(ミュンヘン会談)。


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一番左にいるのがイギリスのネヴィル=チェンバレン首相。



参加国はイギリス、フランス、ドイツ、イタリアの4国。


チェコスロヴァキアのことを話し合うのに、なんとチェコスロヴァキアの代表は参加せず。

しかも、要求が飲まれれば、ドイツ帝国の領土が東の方に拡大するという大問題であるにもかかわらず、ソ連は会議に参加できなかったんだ。


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仲間外れにされたスターリンのいら立ちを表現した風刺画



結果、ズデーテン地方はドイツに割譲されることになる。

イギリスのネヴィル=チェンバレン首相は、この会議によって平和が保たれたと、当時は本気で信じていたんだよ。


しかし、その見通しは甘かった。


ヒトラーは翌年1939年3月には、さらにチェコスロヴァキアを解体し、西半分のベーメン(ボヘミア)とメーレン(モラヴィア)を保護領に、東半分のスロヴァキアは保護国にしてしまった。


ドイツの東方拡大によって戦々恐々としていたのは、ヴェルサイユ条約によって独立が認められていたポーランドだ。

当時のポーランドは、バルト海沿いに領土が与えられ、ベルリンを含むドイツ帝国の領土の大部分と「東プロイセン」との間に食い込むように形となっていた。

この部分は「ポーランド回廊」と呼ばれ、ヒトラーは、なんとしてでもこの「ポーランド回廊」を奪い「東プロイセン」に陸ルートで移動できるようにしたかったのだ。


1939年には国際管理(国際連盟管理下の自由市)とされていたバルト海に臨む重要な港湾都市ダンツィヒ(現在のグダンスク)とともにドイツに対する返還を要求。



こうしたドイツの積極策に刺激され、ムッソリーニのイタリアも4月にはアルバニアを併合している。
アルバニアはイタリア半島からアドリア海を挟んで向こう岸にある。


ヴェルサイユ条約で築き上げられたヨーロッパの秩序が公然と壊される中、イギリスとフランスはポーランドとの間に、ドイツを仮想敵国とする安全保障条約を締結(ポーランド=イギリス相互援助条約、ポーランド=フランス相互援助条約)。


これを後ろ盾にしてポーランドはドイツの要求を拒否した。



さらに、イギリス、フランスはソ連との同盟も模索。
ドイツを封じ込めるには、ソ連と手を結べば地理的に ”挟み撃ち“にできるからね。
もはや資本主義も社会主義もクソもない状況だ。


しかし、ソ連のスターリンはイギリスとフランスの方を向きはしない。
ミュンヘン会談にも呼ばれず、ドイツの東方拡大を野放しにしたイギリス、フランスへの不信感は頂点に達していた。




結局1939年8月にソ連のスターリンがとった驚きの外交。

それは、なんと、ヒトラー率いるドイツとの提携だ。


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右下がドイツの外務大臣(リッベントロップ)。左後ろに立っているのがソ連の外務大臣(モロトフ)。右に立っているのがスターリン。
スターリンがめっちゃ笑顔である。



あれ?

 

ソ連は1935年に反ファシズム人民戦線を決議し、ファシズムをとるドイツを「敵」に定めていたわけだよね。

それが、なぜいきなりドイツとの間に条約(独ソ不可侵条約)を—?



世界中の誰もが予想しえなかった、このあまりに電撃的かつ不可解な外交劇。


その背景には、イギリスとフランスの定めたヴェルサイユ条約の言いなりになっているだけでは、もはや自国の ”生存権“ を確保できないとする、現実主義的な考え方が働いていたのだ。



西に領土を拡大したいソ連と、東に領土を拡大したいドイツ。



まず先に動いたのはドイツだ。
1939年9月1日、準備通りポーランドに侵攻

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ポーランドと条約を結んでいたイギリス・フランスがドイツに参戦する形で、再びヨーロッパに戦火が勃発する。


ポーランド軍はドイツ軍に圧倒され、

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首都ワルシャワを守るポーランド軍兵士


1939年9月半ばにはソ連軍も侵入し、ポーランドは敗北。


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ポーランドはドイツとソ連との間に、独ソ不可侵条約の秘密議定書通りに分割されてしまった。


これを歴史上4回目のポーランド分割ということで、「第4次ポーランド分割」ということもある(【←戻る】9.1.7 ポーランド分割)。


1918年の第一次世界大戦の後「20年の平和」を経たヨーロッパは、こうして再び戦火の時代を迎えた。

そしてその戦火は、日本・ドイツ・イタリアとの同盟関係の存在によってユーラシア大陸の東の端の戦火に飛び火し、文字通り「世界大戦」へと発展していくこととなる。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊